2021-09-17

ジーン・ケリー/スタンリー・ドーネン監督「雨に唄えば」(DVD)を観て。 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 今日は雨が降るらしい。そんな時は久々にこのDVDを観ようと心に決めてから、早朝近所のコンビニに出掛けた。途中、水道道路の下を潜るトンネルがあるのだが、そこで朝っぱらからなにやら撮影をしている。スタッフの様子を見ると、どうやら地上波テレビの撮影のようだ。なぜなら私は撮影スタッフの持つキャメラや録音スタッフの物干し竿マイク、車止めをしている制作スタッフのインカム等で分かってしまうのだ。私がベテランだからというわけではない。下積みが長過ぎたのである。指笛を吹いても<ぺーぺー>となってしまうほどだ。
 そうっと邪魔にならないように通り過ぎようとするが、顔見知りのスタッフがいないか瞬間的にウォッチして『色の抜けて無い方のジャージを着てくれば良かったか』と悔やみ、『マスクとグラサンだから俺だとわからないか』などと胸を撫で下ろし、『これじゃまるで芸能人気取りじゃないか。バカか俺は』と苦笑いする。朝から多忙だ。
 自己顕示と自己嫌悪の挟み撃ちにされても、意を決してすり抜けようとすると、そこに田中みな実がいるではないか。
 田中みな実が、狭すぎてすれ違うのに半身にならなくてはならない歩道で黄昏ている。いや、そういう演技だったのか。
 即座に雑誌ananの表紙になった彼女自身の両腕で乳首を隠蔽したショットが私の脳裏に映し出される。かなり鮮明に。8Kは超えている。
 真横で「お通りくださーい」と赤色灯を振り回す制作スタッフの声も霞んで聴こえる。カットバックされる目の前の田中みな実とanan表紙。それがひとつになり幻視状態になったとき、私は田中みな実と半身ですれ違った。すれ違ったのだ。くれぐれもこすって無い。そして彼女と別れて数歩歩み出したとき、「ああ、そうだ。忘れ物だ」と右手の拳で左手のひらを叩くという説明台詞をやや大きめのボリウムで発しようかと思ったけども流石にそれは出来ず、コンビニで万引きするかの如くの早業で買い物を済ませてトンネルに戻ってきた時には彼女とスタッフ達は、すでにいなかった。、「段取り良いな。地上波は。」と捨て台詞を吐いたらトンネルの中で少し響いてしまう。誰もいなくて良かった。

 いけない。本題に戻る。「雨に唄えば」。もちろん素晴らしい。タイトルナンバーよりも、その1曲前に、ジーン・ケリーとドナルド・オコナ―とデビー・レイノルズの3人で踊るナンバーが好きだ。男2人と女ひとりは様になる。アラン・ドロンの「冒険者たち」だってそうだ。これが男ひとりと女2人になったらただのスケベ親父になる。何故だろう。などと考えながら、デビー・レイノルズが踊ってても、田中みな実の幻視を観ていたのは言うまでも無い。これが男だ。

 20数年前、売れ始めた芸人ダンディ坂野に、タップシューズを贈呈したことを思い出した。「ジョークの後、軽やかにタップを踏んでから<ゲッツ!>ってのはどうだい?」と思い付きで言った意見の責任を取ったのだが。贈呈といっても私の使い古しだったけど。あれはどうなったのだろう。まあ、いいけどさ。
どうやら私は疲れているようだ。これもコロナのせいだな。

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大倉順憲

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