チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』
(となりのチラシは次回公演の『クーラー、そしてお別れの挨拶』)
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一、松村翔子、安藤真理、青柳いづみ、武田力、佐々木幸子、矢沢誠
3/1、演劇ユニット「チェルフィッチュ」の横浜美術館レクチャーホールでの公演に行って来た。
壁にかかったリアルタイムを示す小さい時計以外は、いさぎよいくらい何もない舞台(メディアを多用することで進んだ表現だと思い込んでいる貧しい演劇人が多い昨今、これはあっぱれだと思う)。
どこにでもいるようなごく普通の服装をした出演者たち。
無意識なのか意識的なのか曖昧に見える身体的所作に、正しさよりも本能的な言語感覚。これらの不均衡なバランスは日常に感じる不安や気持ち悪さと少し似ている。
誰もが当たり前と思って疑わない(ようにしている/時もある/ことを疑いもしない)日常の思考や動作が、ゆるやかにパラレルに解体されていく。
日頃、ナチュラルに認識しているつもりの事象も…自意識でさえ…疑い始めたら、たぶんこの現実社会では生きづらくなってしまう。
だから、多くの人は毒にまみれた言葉を口の中に隠し、競争に勝ち抜き、他人から不愉快な突っ込みを受けないよう、できれば優越感さえも持ちたいと願うのだろう。
そして、軽々と「幸せ」という表現で括ったり、信じ込めたりもするのだ。
だが、こういった演劇を観ている間だけ周辺の問題を考え、すぐにいつもの現実と思っている日常生活に戻って行ける人こそ「幸せ」な人間と言えるのかもしれない。
…こういったことを常に心のどこかに留めておくのは苦しい。まるで苦行のようだ。でも、せめてそうやって着地せずにいつもこの瞬間を疑い続けていきたいような気がしているのだけれど。