右より小池博史氏、吉本光宏氏、浅井隆
1982年から30年にわたり活動を続けてきたパフォーミングアーツ・カンパニー、パパ・タラフマラが、6月に行った解散発表に続き、ファイナル・フェスティバル「パパフェス」を開催。前回の主宰の小池博史氏へのインタビューを受けて、今回は文化政策、文化施設の運営や助成金制度に詳しいニッセイ基礎研究所の吉本光宏氏を迎え、日本の舞台芸術における問題点を探る。
文化行政を考えながら創るのではなく、過去と未来の時間軸の中で創作している(小池)
浅井隆(以下、浅井):まず吉本さんがどんなお仕事をされているのか教えてください。
吉本光宏(以下、吉本):ニッセイ基礎研究所は日本生命の作ったシンクタンクで、私はそのなかで文化政策をテーマに研究をしています。ひとつはリサーチ系の仕事で国内外の文化政策についての調査研究や提言活動で、もうひとつは具体的なプロジェクトのコンサルティング的なこともやっていまます。例えば、劇場開発におけるプログラムの構成とか、運営体制、収支構造などのソフトのプランニングをやっています。それは、行政施策の中で、劇場や文化事業がなぜ必要か、というような政策決定につながる資料を作ることが重要だったり、最近では、文化施設の評価をどのように行うか、といったことが求められている、ということが背景になっています。
小池博史(以下、小池):今日の話題に関して言えば、吉本さんは助成金を出す側ではないんです。もっと助成金の制度をどうするかという基盤についてのアイデアを提示している方ですから、それだけに今の問題も解るだろうと思います。
浅井:イギリスのアーツ・カウンシルに視察に行かれたり、日本の文化振興会をどう機能させるかということの審議をしているわけですね。
小池:私のような実演者側から見ていると、そこまでは大切だし、いいことなんですね。でも、実際的運営になると全然違ってくる可能性が大きい。文化行政に限らずですが、プランニングと実際との相違がいちばん大きな問題です。
浅井:この間のインタビューで、メインの原因ではないにしても、パパ・タラフマラがアジアのアーティストとコラボレーションしようとした公演の助成が出なかった。これを落とすようじゃやってられないよ、と。それで結局日本は舞踏といえばクラシックとフラメンコしかないじゃないかとおっしゃっていたと思うんです。
小池:それはあくまできっかけなんで、ここばかり取り上げられるのは心外だということは最初に言っておきたいと思います。これを落とすのではというより、将来をどういう風に日本の国が考えているのか、そのグランドデザインが見えない。同じ言葉のように聞こえるかもしれませんが、自分がどうだ、という以上に、日本全体が見えてこないことへの苛立ちは大きい。いったい何を望んでいるのか。そもそも演劇、舞踊という枠組み自体、きわめてナンセンスだと思えるけど、それはさておき、演劇と舞踊があって演劇のほうだと比較的雑多な選択をしてくる。でも舞踊には雑多さは薄いですね。どういう基準で選んでいるのか、見えない。〈トップレベルの舞台芸術〉という枠組みがあるけれど、でも一体なにをもってトップレベルと呼んでいるのかまったく解らないんですね。単純に制作力のトップレベルで、作品のトップレベルを選んでいるとはまったく思えない。選考過程の開示もないし。これだけじゃなく、いろいろな意味で日本社会に対し絶望的な気持ちを持っていたときに、311が起きた。311は私にとって非常に大きくて、強く、何か方向を変えなければ行けない、提言もしていかなくてはいけない、という自分にとっての引きがねになっていったということなんです。
浅井:でも普通、表現に関わる人で、政府の文化政策がどうか考えながら何かを創っている人はいるんでしょうか。
小池:文化行政を考えながら創るのではなく、過去と未来の時間軸の中で創作しているという気持ちが大きい。未来へどのようなベクトルを向け、未来から何を感じるかはアーティストとしてきわめて重要と思います。また、社会との接点でどういう風に舞台は機能するか、ということに私は興味があった。もともと社会学部出身ということもあるんですけれど、社会のなかでの舞台芸術の位置づけが面白いと思ってやってきたんです。
浅井:そこにはまったく異論はないんです。日本の文化政策がどっちを向いているかということと、社会のなかで演劇がどうあるべきか、というふたつの論点で、後者は100%理解できます。小池さんの問題は、舞踊ならクラシックとフラメンコだけじゃなく、コンテンポラリーやモダン、あるいは演劇なのかダンスなのか解らないカテゴリーのところはいったいどう審査する人は見ているんだろうかという不満があるということですよね。
小池博史氏
小池:不満というか、単純にシステム上、そんな目は持っていないでしょうね。また、それだけじゃない。例えばけっこう大きな作品だと、世界の一流劇場と言われるところから招聘状が来ます。しかし、落とされ続ける。パパ・タラフマラは、かなり助成金申請をして通っている印象が強いようですが、降りないときのほうが実際にはずっと多いんです。そうすると大きな作品は行けない、あるいは相手側の全額負担で、ということになる。仕方ないから、交渉の末、相手の全額負担で何度もやってきてはいます。しかし、これは私たちの方が疲弊するんです。ギリギリ過ぎて。なぜか。世界のスタンダートというのは、オンショア、オフショアコストというもので、海外の土地に入ったらそこでの移動費や宿泊費、ギャランティなどは相手側が持ちますよ、ただし、その土地に来るまでの渡航費、運搬費は、どうかあなたの国でまかなって下さいというものです。招待は毎年複数、来るんですが、相手が一流劇場ほど、自分が望んだカンパニーに対し日本国が助成金を与えないというのは、彼らからすれば、強くプライドを傷つけられることになる。一流のプライドがありますからね。私たちもどれだけ日本の文化庁の説明をしたか、相手に分からない。でも、当然のように相手は納得しないのです。それで、そんな状態が毎年のように続くと相手の国からすれば、日本って何考えているか解らないと、あるいはパパ・タラフマラを招待しても確約できない、とどんどん懐疑的になります。それが海外との交流では続いてきたわけです。この間の新作にしても、韓国国立現代舞踊団やインドネシアのケローラ財団が絡み、アメリカのポール・ドレッシャーというとても有名な作曲家のアンサンブルがタッグを組む形で絡んでいた。それでも落ちるんです。国絡みというのは今までに何度もありますが、関係ない。相手が国立劇場でも落とす。ある面、ピュアダンス、ピュア演劇ではないから、昔から、最終的に落とされることは多かった。そして説明もない。それでいて、保守的なバレエなんかが年間何千万ももらう。現場でやっている人間としては、戦々恐々です。
興行として成立するものだけが芸術になってしまうと、芸術が痩せてしまう(吉本)
吉本:いまのお話は、小池さんがここ10年くらいずっと経験してきて、それがこの間の解散を決定するまでに蓄積してきたということですか。
小池:はい。ただ、日本の作品傾向が非常にちまちましてきていることに強い違和感を抱いてきました。この間も浅井さんと話したことのひとつなんですけれど、1980年代、90年代頭はとても大きな希望があった。ちょうどリンクしてセゾン文化というのがあって、だけどバブルは崩壊し、経済が縮小していった。同時にアーティストたちがみんな内向きになり、シュリンクしていきました。私はアート的意識のあり方が非常に重要だと思っているんです。アートって、足下を見つめつつも、同時に100歩先、200歩先を見つめていく、あるいは100年後をどう見るんだと、過去、未来との対比のなかから形にしていく作業であるというあり方こそが、アートの基本的なスタンスだと思っていたわけです。ところがレンジがぐっと狭くなった。特に2000年代に入っていくと急速に縮まっていった。そのなかで、『百年の孤独』のような壮大な作品をやろうとしてもどうも違う。当時の社会的方向性とまったく違うと思っていたら、一切批評は出なくなるわ、でね、批評家含めシュリンクしていった。
浅井:いまふたつの問題をおっしゃって、分けたほうがいいと思ったのは、前半でおっしゃったことは、支援制度の問題ですよね。後半は、国の支援だろうと何だろうと関係なくアーティストとしての表現活動がバブル前後から今に至るまで、小池さんの表現では〈内向きになっている〉んじゃないかと。批評家もそういう傾向にあるということですよね。
小池:まあ、そうなんですが、分けにくいとも思います。社会の流れが一方向に傾き出すと、役所からアーティスト、批評家、みんな勢揃いして、内向きになった。つまりそれは助成金のシステムもそうですが、作品自体をどう評価するかということもまた、リンクしてしまう。
浅井:僕はもともと天井桟敷にいたけど、辞めてアップリンクという配給会社を作って映画館やイベントスペース運営しているんだけれど、小池さんの意見にずっと違和感があるのは、制作費というのは大事だけれど、アーティストが今やろうとしていることは、助成金がないとできないものなんですか?映画の世界では、助成金の申請はしますけれど、通ったらラッキーというくらいのものです、映画の場合は2,000~5,000万とか額大きいですけれど、原則は興行の資本主義のシステムのなかで映画を作って上映していきます。
小池:興行という側面から見れば、それは劇団四季の発想とまったく同じですよね、良い悪いではなく。
浅井:劇団四季は助成金なんて関係なく、お客さんの楽しめるステージを作り、客の入りが悪くなって来たのかどうか知らないけど、値段を下げてでも観客を増やして結果儲けてやるという話ですね。ということは、小池さんが考えているのは興行だけではなく、国の助成というのが必要不可欠なもの?
吉本:ちょっと整理したほうがいいと思います。僕が思っているのは、パパ・タラフマラが1982年にできて、その後の30年の歴史というのは、日本の文化政策の構造がものすごく変わった30年なんです。80年代の日本には国レベルの文化に対する助成制度はほとんどなかった。でも、サントリーホールができたのが1986年、Bunkamuraができたのが1989年で、セゾンが美術館を作ったり、コンシューマー向けのサービス産業が文化に投資をしだした時期なんです。88年に京都で日仏文化サミットがあって、そこでメセナという概念が紹介された。メセナというのは資金的にも資金以外の面からでも芸術文化を支援するということです。それまでは観客からの入場料収入によって、市場のなかでなんとか成立させていましたが、80年代の末に日本の芸術団体の経営状況が初めて調査をされて、それを見るとみんな赤字で、劇団員は本業で食べていない人が圧倒的に多いという状況がつまびらかにされたりしました。同時に諸外国を調べると、日本が見本にしたのはアメリカの全米芸術基金なんですけれど、国のお金がちゃんと助成金というかたちで出て、芸術団体の収入の一部となっていて、経営が成り立っているということが解ってきた。それで1990年海部総理の時に、補正予算で国が500億円出し、民間も100億円出して600億円くらいの芸術文化振興基金が創設され、芸術文化に対する公的な助成金の制度が整った。同時に民間でも企業メセナ協議会が1990年にできているんです。そのときにはじめて、芸術というものは、社会的なサポートが、公的なお金であれ民間のお金であれ必要だという理解がすすみ、国も民間企業もそのことに前向きに取り組むようになったんです。
浅井:国の予算は税金ですよね。税金でアートを支えるという根本的な思想というのは何だったんですか。
吉本:思想があったかどうかは私は解りません。ただ、現実問題としてそういうものがないと、舞台芸術の場合は市場原理のなかで成立させなければならない、つまり興行としてやっていくしかない。けれど、興行として成立するものだけが芸術になってしまうと、芸術が痩せてしまいますよね。市場原理に縛られない芸術というものの社会的な意味というのも必ずあると思うんですけれど、そういうものを支えるためには公的資金が必要だという考えです。これは、もう古くなってしまいましたが、ウィリアム・J・ボウモルとウィリアム・G・ボウエンという人が書いた『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』という本にもあるんですが、いくらやっても生産効率を上げられないわけですよね。例えばパパタラだと10何人かの人がいて、5ステージやるためにその人が何ヶ月かかけて労力をつぎこんで作る。それを入場料収入だけで回収しようとすると、ひとり何万円ものチケットにしないと成立しない。ではそれは必要ないのかというと、そうではない。別な言い方をすれば、芸術がある種の公共財的な意味を持っているという理解です。特にヨーロッパは国にしても、地方公共団体にしても、お金を出している。
浅井:なぜそういう考え方がヨーロッパには根付いているんですか?
小池:例えば一昔前のフランクフルトはいい例だと思います。ジャンキーが目立ったフランクフルトに、文化的に豊かにすることで、住民が戻ってきた。文化的に豊かな街というのは、住みやすい街だということが歴史的にいろんな例を挙げて証明されてきたというのが大きいと思うんです。そのとき、文化ってどうやって作るのか、興行だけはなく、社会の意識の総体としての豊かさを、社会は生み出す義務があるのではないか、というところから来ているのではないでしょうか。
浅井:日本だと能や歌舞伎がありますが、コンテンポラリーの部分でもそういう考え方がヨーロッパにあるということですか。パパ・タラフマラとかもっと小さいグループもあったほうが街の文化的な豊かさはあるんじゃないかと。
吉本:日本でも、ずいぶん昔から、文化庁の民間芸術等振興費補助金という制度がありましたが、予算規模はすごく小さかった。それで芸術文化振興基金というのができて、でもそれは運用益でやるしくみだったので、当時は金利が9%近くありましたから、40~50億ぐらいですよね。それで助成予算を確保する計画だったんだけれど、ご存知の通りどんどん金利が下がって、今は10億強じゃないですかね。そうしたこともあって、芸術文化振興基金ができた後、次に文化庁自体が細々とやっていた助成予算を大幅に増やした時期があるんです。それが96年のアーツプラン21という政策です。そのときは文化審議会の文化政策部会はなくて、ただ文化庁も文化政策を強化しなくちゃいけないということで有識者の会議体を設けて、何度か緊急提言をしているんです。文化庁はその提言を使って財務省、大蔵省を説得して予算を獲得していった、という時期が90年代の後半なんです。そのときに、〈トップレベル〉という言葉も出てきて、芸術文化振興基金は幅広く助成して、裾野を広げるのに対し、文化庁は年間で数千万から億単位の資金を芸術団体に助成する、というふたつの構造ができています。確かに〈トップレベル〉という表現には、私もかねてから違和感を抱いているし、文化審議会のなかでも、トップレベルと裾野とか単純な構造であるわけがないということを申し上げているんですけれど、それが彼らにとって説明しやすい言葉なんだと思うんです。トップレベルの伸長と裾野の拡大って。でもそうなると、表現する立場の小池さんから見ると、「なにをもってトップレベルなの」という話になる。
映画を見る観客を作ってきたという気持ちがある(浅井)
浅井:パパ・タラフマラはこの30年間の間に、助成金として延べで1億円くらいはもらっているの?
小池:1億じゃきかないと思いますよ。
浅井:普通の中小企業の社長的に考えると、えっ!という額。30年というスパンはあるけれど、返さなくていいお金じゃないですか。
小池:そうですね。つまり、やりたい人がもらって、税金をつぎ込まれて、なんと贅沢な、という発想になってくる。市場経済的視点で見ればとんでもないということになりがち。それが文化や芸術の難しさです。文化の意味、人が生きる意味を問うという発想をとらない限り、ただの金額の話になっていってしまう。
浅井:それは解りますよ。でもやっぱり国の文化政策、国の助成に頼らないと成立しない?
小池:どういう風にやるかであって、成立はしますよ。つまり大きなものは作らない。それで小さいものであれば、みんなアルバイトでなんとかやっていけばできる、それこそ天井桟敷がやっていた70年代はそうだったでしょうし、私たちがはじめた80年代はみんなそうですから。
浅井:天井桟敷は助成がない時代に大きな作品も作ってましたよ。でも劇団員は100%無報酬。
小池:助成をあてにはできなかったし、実際、なかった。仕組み自体、ない。ましてや、そもそも新劇からして体制側ではなく、これが前衛運動のまっただ中の60年代、70年代になると反権力を掲げて始めている劇団が多かったから、国から金なんてとんでもない。プチブルじゃねえ、とやっていたわけです。そんな時代だから、助成金なんて発想はまずないですよね。かつ、みんなお金はいいからとりあえずやりたいことをやろうと。60年代、70年代は特に肉体の時代だった。ただ、だんだん誰もが歳をとってくるし、良い作品を上演し続けるには、一時の勢いだけではできなくなる。「金ないとてもじゃないとできません、続けられません」となるのは必然です。勢いだけならギリギリ10年は保ちます。その後、では、どうするのか。興行的な舞台を日本で打っていくようにすることが肝心なのかどうか?しかし、日本の興行的舞台は国際競争力はありませんよ。
浅井:観客を作っていくという発想はないんですか?僕は映画の配給をやってきて、見る観客を作ってきたという気持ちもあるのです。今までこういう映画なんてぜったい観なかった、という人を映画館に引っ張ってきた。今はドキュメンタリー中心だけれど、「ドキュメンタリーなんて映画館で観るもんじゃない」という時代から「ドキュメンタリーも映画館で観ると面白いな」と思ってもらえるような作品を配給して、客さんを引っ張ってきた。だから、パパ・タラフマラに面白いんだという力があれば、国の助成を常にあてして、大きなものをやるためには必ず国の助成が必要だとなれば、ほんと土木工事みたいなものですよね。
小池:映画と演劇は特性が違います。プリントして複数館で同時に、かつ朝から晩まで何回も上映できる映画に比べ、舞台はどうやっても一日に一回か二回が限界です。複製できるものでもない。ならば入場料収入のみでできるかと言えば、入場料収入だけではきわめて厳しいという現実がある。入場料にしても映画に比べれば最低でも倍から三倍くらいの値段です。そこで、私たちは海外にマーケットを求めたわけです。今では世界中からオファーがありますが、ギャラだけではなかなか成り立ちません。舞台は、たとえば東京で二万人くらい入れば助成金がなくてもできるでしょうが、たとえば東京で2万人のお客さんを得ている劇場や劇団なんてほとんどない。海外でもそれは同じではないでしょうか。
吉本光宏氏
吉本:国際的な比較でみると、例えばフランスは国のお金が相当流れていますけれど、日本の助成金とぜんぜん違うのは、申請しなくても流れてくるんです。例えば国立振付センターというところには、できたときは国立じゃなかったとしても、運営とか作品の質とか事業のクオリティにより国立というレッテルがつけられると、国のお金が毎年出るようになるんです。それが制作の基本的な財源になっていて、そこに入場料収入が加わって採算があうという構造なんです。イギリスはアーツ・カウンシルがあって、新しい政権になって仕組みが変わってしまったんですけれど、変わる前はだいたい全国で800の芸術団体や文化施設にレギュラー・ファウンディングといって毎年が国からお金が流れるしくみがある。もちろんその成果は厳しく評価されるんですよ。ナショナル・シアターだったりロイヤル・オペラ・ハウスも同じ枠組みでお金が出ていて、それで成り立っているんです。それを考えると、フランスやイギリスはそうやって国のまとまったお金がある程度出ていて、そこをベースにものを作ろうとしているけれど、日本のように毎回毎回申請して、出るか出ないか解らない。海外からオファーがあってもどうなるか解らないという状況で作り続けている状況とだと、おのずと違ってくると思うんです。
小池:私たちが海外行くと、大きな劇場での公演も多い。そうすると、「お前が持っている劇場はどんな劇場?」と聞かれるわけです。ヨーロッパではこれが普通なんです、このクオリティの作品をやっているカンパニーは1,000くらいの席数の中劇場を持っていてしかるべきと。誰もアルバイトしてやってるとは思わないんです。一方、東南アジアでは、日本より条件はずっと悪くなりますが……。
浅井:新潟のNoismは市の劇場がカンパニーを持っていて、アルバイトをしなくても何人かはそこのプロとして生活が保障されているというかたちですよね。そういうスタイルがひとつのケースとしてあっていいんじゃないということですか。
小池:そうですね。難しいところですね。社会が文化、芸術を認めるようなら何も問題はない。私たちもそうですが、パフォーマーは30代半ばで多くが辞めていってしまう。生活の問題を抱え込みますから。30ぐらいまでは勢いでできますが、そのうち結婚して子供ができて、男性だったら「あなた、将来はどうするの」とか奥さんに言われ、とてもこんなことできない、ってなっていってしまう。あるいは学校の先生をやりながらやっていくか。どうしても不安定な中では将来は見えない。それでもやりきれるという強靱な意志を持った人はあまりいませんよね。そして、演出家も含めて、状況が厳しすぎるためにね。私がいちばん心配するのは、日本ではだいたい35歳になると同じ傾向のものを作りだしてしまうことなんです。
吉本:次々新しい表現に挑戦しようとすることがなくなってくるということですか。
小池:そうですね、金太郎飴的になってくる。いい言葉で言えば成熟に向かっていく。でも、悪く言えば同じような作品を繰り返し創ることになる。ただ、客が入るということだけで言えば、カンパニーってあまり変わらないほうがいいんですよ。作風が変わらない方がお客さんは安心してきますから。
浅井:それは紋切り型になったほうがいいということ?
小池:ある程度はそうですね。客入りだけを考えればね。でも一方、アートって何かっていうことなんです。アートの使命というのは‘変わっていく’ことだと私は思っています。ただ、変わることより、成熟に向かう方が大切という人もいますから、それはそれでいいんですよ。でも‘変化する’方向に向かうアーティストが、僕はもっともっといなきゃいけないと思います。ただし、やりにくい。だって金銭的に厳しくなるのは間違いないですから。恋愛もののベタベタなものをやるほうがテレビ慣れしているお客さんだったら来やすいでしょうし。そうじゃなくても、カンパニーに期待するのは、そのカンパニーらしさで、意外にそれは保守的なもので、染み付いたイメージに合致させることだったりする。新しい表現を追い求めて行こうとすると、どうしてもそういった問題がある。
浅井:それは税金から出る助成金を分配するときに、ある程度お客さんがいるところに分配するのは公共性の面から言えば正しいとも言えると思います。あまりにも先鋭的で、アートとしては革新的かもしれないけれど、税金の使い道として少数にしか還元されないんだとしたら、税金の使い道として問題を問われるでしょうし。そして、本当の芸術とは、助成を受けるといった公共事業とは別のアンダーグラウンドから産まれるものだと信じています。
吉本:でも大きいと言っているところでも、構造的に税金をつぎ込まないと成立しないものもある。それからたくさんの観客が入る作品に国のお金が入ったほうが、より多くの人が国の税金の恩恵が受けられるというのもそうだと思うんですけれど、逆の言い方をすると、そんなに観客がたくさん入るんだったら、ロングランすれば採算があって助成金は必要ないということになる。さらに言えば、たくさん入るものだけしか成立しない国になったとしたら、それこそ文化的な貧困ですよね。もうひとつは、助成の仕組みそのものは90年にできてから、96年に文化庁が予算を増やして、90年以前と比べれば、ものすごくたくさんの公的資金が投入されるようになっています。でも諸外国に比べるとまだまだ少ない。日本の文化予算は人口ひとり当たりにすると韓国の5分の1ですから。その仕組みを少しずつ改革していこうとする努力がなされていて、その中心がアーツ・カウンシルという仕組みなんです。
パパ・タラフマラが解散をすると聞いたときに、僕が最初に思ったのは、日本の助成金制度が、いわゆるパパ・タラフマラ的な表現を支え切れなくなってしまったんじゃないか、ということなんですね。助成制度としては整ってきていて、それこそトップレベルと見なされるところには毎年何千万かの資金が入って、そういう規模の大きな芸術団体は、経営が多少なりとも安定したかもしれないけれど、逆に日本の芸術の新たな表現を生み出すことに現在の助成制度がどれだけ寄与しているかどうかということは疑問だ、ということが、すごく象徴的に現れた出来事だと思うんです。だからアーツ・カウンシルができて専門家が起用されて、仕組み自体は良くなっていくと私は信じているんですけれど、新しい、これまでにない演劇でも舞踊でも美術でもない表現に対しても、日本が国のお金を出せるような仕組みをそのなかにいかに埋め込んでいけるかどうかというのが、この国の助成制度の大きな課題なんだろうな、と思います。
【後編に続く『なぜ今日本の舞台で大きな物語を築くべきなのか』】
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小池博史が語るパパ・タラフマラ解散の全て「踊れる体を手に入れないと、そこから先の言語の獲得は難しい」(2011-06-24)
パパタラ ファイナルフェスティバル
『島~island』
2012年1月13日(金)~15日(日)
会場:森下スタジオ Cスタジオ
http://pappa-tara.com/fes/shima.html
『SHIP IN A VIEW』
2012年1月27日(金)~29日(日)
会場:シアター1010
http://pappa-tara.com/fes/ship.html
『パパ・タラフマラの白雪姫』
2012年3月29日(木)~31日(土)
会場:北沢タウンホール
http://pappa-tara.com/fes/snow.html
パパタラ ファイナルフェスティバル公式HP
http://pappa-tara.com/fes/
『ロング グッドバイ ―パパ・タラフマラとその時代』
著:パパ・タラフマラ、小池博史
*本鼎談から再構成した内容が掲載されています。
2012年1月上旬発売予定
208ページ
並製
2,415円(税込)
青幻舎
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