骰子の眼

stage

東京都 渋谷区

2011-12-30 19:08


なぜ今日本の舞台で大きな物語を築くべきなのか

パパタラ主宰・小池氏、ニッセイ基礎研究所・吉本氏、アップリンク浅井が日本の舞台芸術について語る【後編】
なぜ今日本の舞台で大きな物語を築くべきなのか
パパタラ ファイナルフェスティバルで1月13日から上演となる『島~island』より

【前編】『日本の舞台芸術に国の助成は必要不可欠なものか』からの続きですので、前半からお読み下さい。

多様な文化を受け入れない国は先細りになる(小池)

浅井:伝統芸能とかクラシックとかフラメンコに助成するというのは、過去のものをずっとやっているということである程度金太郎飴といえば金太郎飴かもしれないけれど、そのなかで革新的な表現をそれぞれ追求しているかもしれないし、公共事業と考えれば、税金をそこに助成するという意味ではし易いですよね。

吉本:そこも重要だし、むしろもっと充実させないといけないと私も思っているんですけれど、それだけになってしまうというのはどうかと。小池さんが先ほど2つの問題が同じだとおっしゃったのは、私なりの理解だと、例えばパパタラのように、そこのグループに入らない人たちの表現というのが社会的に成立しない環境になりつつあるわけですよね。そのことによって、他の表現も批評も同様になっていってしまうということかなと。

小池:私がいちばん大切だと思ってきたのは、先ほども言いましたが、どういう国にしていこうとしているのか、という国の意思としてのグランドデザインの問題なんですよ。お前はなんで舞台作っているのにそんなこと言ってるんだって言われるかもしれないですけれど、それが私には重要なんです。最初に私自身が社会にコミットするのに舞台芸術がすごく有効だと思って始めていますからね。いい国とは何か、いい社会って何かと考えた時に、やはり多様な文化を受け入れない国は先細りになるだろうと僕は思ってきた。多様な文化を持った社会は生きやすい社会と言うこともできます。で、アートはそこで尖兵隊の役割を果たさなければいけない。バレエのような西洋文化はあっても結構だけれど、作品の多くは単なる西洋バレエの焼き直しに過ぎないし、これで良いわけがない。それをトップレベルとしてしまうような国というのは、国として間違いではないか、と思います。加えて、尖兵隊の役割を果たす人間たちがいない、あるいは認めようとしない国が良い国だなんて、あまりに貧弱に思えます。

浅井:そこに抵抗を感じるのは、常に自分が正しい、ということと、自分の芸術表現は金太郎飴じゃなく衰えてないという確信のもとに、観客がだめだ、批評家がだめだ、国の文化行政がだめだという言い方にしか聞こえないところがちょっと疑問に思うところなんです。

小池:アーティストって、作品に関してですが、俺が間違ってるかもしれない、ってやっていたらできないものです。だからこそ、常にいかに真摯に世界と対峙できるかを自らに課すしかない。

浅井:ぜんぶ外側の要因ばかりじゃないですか。でもほんとうに輝くものであったら助成金を選択する人には解らないかもしれないけれど、観客が支持するかもしれないし。観客の支持だけじゃおおきなパフォーマンスはできないということをさっきから問題にしているわけだよね。日本が多様なパフォーミング・アーツの表現を認めない方向にいってないんじゃないかという不満なわけですよね。

小池:認めないというか、解らないんだと思いますけどね。それから、僕が相手にしてきたのは世界中の観客です。彼らが支持してくれているのは肌身に染みて知っている。浅井さんの言い方では、必ず輝くものは観客が必ず付いてくるものだということだよね。昨年見たゴダールの新作映画は本当に素晴らしかったが、世界的に映像を見せることすら難しいと聞きました。ひとりでも素晴らしい観客がいれば良いんだ、と言うなら間違いなく良い観客はいる。ただ、ゴッホのように歴史が証明してくれるようなことは、舞台には当て嵌まりません。同時代でないと後での評価はあり得ないのです。観客に身を委ねて成り立たせるには、どうしても舞台芸術には先ほどから言っている通り、資金の難しさが付きまとう。

吉本:表現の質的なことになるとちょっと私はコメントしづらいんですけれど、多様な表現が受け入れられる仕組みになっているかというと、そうでもないというのは言えると思うんです。今の国の助成制度は、芸術分野ありきなんですよね。舞踊、演劇、音楽という枠組みがあること自体が新しい表現を生まれにくくしている。

浅井:パパタラが演劇で申請したらどうなるの?

小池:演劇の人は「演劇じゃない」っていうでしょうね。演劇って未だ文学ですからね。『百年の孤独』も、ガルシア・マルケスは文学だけれど、作品としては文学からどう脱するかということでしょ。

国の助成が赤字補填という考え方から、作品を作るのに必要な経費を助成対象とするように変わった(吉本)

浅井:そこに問題があるとしたら審査員は誰が選んでいるんですか?

吉本:審査員を決めるのは文化庁や芸術文化振興基金です。

小池:文化庁は人は選べないでしょ、どこか協会に依頼するか、ジャンルの中で知られた大御所に選定を依頼するのではないでしょうか。審査員が選んだあとで、予算の分配に絡んで文化庁が入る。

浅井:国の文化政策、助成金の分配をする人が、多様な文化を考えたうえで分配していないんじゃないかということですよね。具体的に改善するには、その審査員にもうちょっと多様な文化が解る人がいれば、ということじゃないんですか。

吉本:そうかもしれませんが、審査員を頼まれた側に立つと、例えばバレエの専門家として頼まれたとすると、当然責任としてバレエカンパニーの状況をより良くするためにどうしたらいいかと審査をしますよね。だから審査員の問題も確かにないとはいえないですけれど、枠組みの問題があると思います。

小池:それも大きいですけど、私が思うのは、本物の批評家であれば、音楽だろうが演劇だろうが舞踊だろうが、ぜんぶ一緒くたにして選択できるはずだろうと。詩的感受性の問題ではないか、と思います。非常に言い方がきつくなりますが。特定のジャンルの批評ってことになってくると、当然そのなかでのカンパニーとの繋がりはあるわ、いろんなコネクションはあるわということになる。そんな関係が強ければ落としにくいということはありますよね。

浅井:どんどんボーダーを超えた表現、70年代からマルチメディア、ミクストメディアの表現って普通に舞台であったわけで。当時のローリー・アンダーソンが音楽のライブなのか、演劇なのか、舞踏なのかとか、カテゴライズしたところであまり意味がないことだよね。カテゴライズごとに申請しなきゃいけないんだったら、どんどん今だって新しいスタイル、音楽的要素が強くて、演劇なのかダンスなのか文学なのか、どんどんミックスされているわけだし、じゃあインターネット上のパフォーマンスはどうなるのかという時代だから、そこは限界がある気がするよね。

小池:弊害しかない。

浅井:じゃあすべての表現のなかからパフォーミング・アーツ的なものを選ぶ、誰に助成するのかというのもこれまた小池さんが言ったように、それをぜんぶカバーしている批評家がいるのか、あるいは専門家がいるのか、観客がいるのかといったときに、いないよね。

小池:いないですね。でも、ひとつの方法としてにはアーティストが兼ねていくということはあると思います。

浅井:いまの審査員のなかでは多様な文化を理解する人はいないんですか?

小池:言いにくいんですけれど、見ている人ももちろんいますけれど、難しいでしょうね。舞踊の人は舞踊だけに括られるし。

浅井:ひとつは審査する人の問題もあるかもしれないし、でも社会がそういう先鋭的なアートも税金で助成していかないと、社会の多様な豊かさ、イコール小池さんが言う住みやすさが確保できない社会になってしまうということで、社会がもっとアートに目を向けないとパパ・タラフマラということに特定しなくても、古典芸能とかクラシックじゃないものをやる人たちに助成されないということですね。

小池:それもあるんですけれど、僕自身は、さっきの国全体の問題でいえば、多様なほうが間違いなく面白くなる。と同時に、日本というのはどういう風に世界と伍していくのかという話なんですよ。日本のプロダクトの価値を上げることをやっていかなかったらだめでしょ、と言いたい。バレエだけをやっててもしょうがない。

浅井:まったくそこには異論はなくて、今回吉本さんに参加してもらっているのは、そこに税金をどう当てにするのかという問題だと思うんですよね。助成金を出す側ではないけれど、仕組みづくりとしたら国の税金をそこにほんとうにどう投入するのかという。

吉本:それでアーツ・カウンシルのように、国もそういうものが重要だと舵を切っているんですけれど、その舵を切った時に、同時に考え方として大きな改善が行われました。従来は、チケット収入などで賄いきれない足りない部分の2分1か3分の1は国が面倒を見ますという赤字補填という考え方だったんです。あとは民間から集めてくださいという方式だったものが大きく変わって、作品を作るのに必要な経費を助成対象として、そこに対しては必要な金額はちゃんと出します。でも、その先の公演が成立するかどうかは自助努力で、それこそ観客をひとりでも多く集め、一回でも多く公演が成立するようにやってください、と変わったんです。これはけっこう大きなことです。

浅井:どれくらいの予算が出るんですか。

吉本:予算の規模は、劇場経由で出ているものもあるので正確な数字は解らないですけれど、団体によって違いますね。でも数千万出ているところもあると思います。そういう意味でいうと、制度そのものが変わってきていると私は思うんです。

浅井:でも今年は出たけど来年は出ないというところも?

吉本:ですからそれも、3年継続という枠組みが一応できています。そうした新しい仕組のなかにいろんな価値観を持った表現が共存できるような仕組みがどうやったら入れられるかということに次の課題があると思うんです。戦略とか方針ということでいうと、トップレベルというくくりで、バレエでありオーケストラなわけだから、どういう表現を助成金で生み出すのということは今まで考えないできた。芸術文化振興基金では多分野共同という、枠組みはあるんだけれど、それが戦略かというとどうもそうではないという気がしていて。僕の個人的な考えなんですけれど、アーツ・カウンシルができて、最初は音楽や舞踊などの専門家が入ってますけれど、分野を超える専門家が必要だろうということは提案しています。そういう人が入っていることによって、初めてどういう芸術表現を国のお金で生み出していくのかという戦略を練り、そのためのプログラム構築をするというのが次のアーツ・カウンシルの役割で、それが日本の助成金の次の改善のポイントだと思っているんです。国がそう思っているかどうか解らないけど、文化庁月報の原稿にもそういうことを書きました。

小池:枠組みとしては大賛成ですけれど、結局誰がやるのか、ということです。

吉本:でもそれを言い始めたら、何もできなくなっちゃうんです。今回もプログラム・オフィサー、プログラム・ディレクターというのを公募して採用しているんですけれど、そういう専門家を雇わなきゃいけないという議論があったときに、じゃあいますか?という話は常にあるんです。でも、ポジションがないとぜったい生まれないわけです。それは鶏と卵なので、仕事をする人をまず作らないことには始まりません。

浅井:プログラム・ディレクターというのは何をする人なんですか?

吉本:今の仕組みのなかでは、審査をよりしっかりとやるということと、助成をした結果どういう効果があったということをちゃんと検証する役割です。そういう考えが出てきた背景には、事業仕分けがあります。国が芸術団体に助成してどういう効果がありましたかと問われたときに、うまく説明できる材料がなかったんです。でも、その材料が観客動員だけだったら、売れる作品をやっていればいい、人気タレントを出して大きな劇場でやればいいという話になってきますよね。

浅井:難しいですよね、そこの評価って。

小池:私はつくばで8年間芸術監督をやってましたけれど、その時は完全に二本柱でいきました。つまり、市側を納得させるためには間違いなく観客を動員できるものをやり、でもそれはメインじゃないわけです。一方では、まさしく世界のトップレベルのクオリティを持つ作品を必ず年に5、6本やった。その後、それらを見た学生たちがどうなったか。当時、筑波大学の学生だった人たちは、ただショックというか、驚きだらけだったでしょう。10年以上が経過すると、30を過ぎ、ある程度のポジションに就くようになる。そのうち、偶然、話をするようなキッカケが生まれると、結構多くの筑波大学出身者たちが、あれがきっかけとなって、文化関係の職種に就いたと言う。「恩返ししたい」という人まで何人か出てきた。世界のトップレベルのクオリティを持った作品をきちんと見せられれば、その人の人生の奥深くまで変わってしまう可能性もある。アーティストたちは海外から国の助成金で来ていますが、レベルの高い作品群を見せられれば、そういう作品を生み出す国に対して観客はいいイメージを抱きもする。単なる国内評価基準を国際基準に変えられれば、広がりはでます。

浅井:難しいね、助成金なしでは大きな公演ができない、社会がその多様性を認めるほうがより面白く住みやすい社会であるためには、そういう先鋭的な表現のところにも助成金を出したほうがいいと。それを公募制にした場合に、誰がどう選ぶのか。

小池:だから、目利きを作ることもしなきゃいけないですよ。教育の問題でもある。

webdice_ship002
パパタラ ファイナルフェスティバルにて1月27日から29日まで上演の『SHIP IN A VIEW』より

吉本:これはちゃんと海外と比較したわけではないので正確ではないんですけれど、日本の場合は劇場で制作費をもってやっているところがすごく少ないんです。僕が思うのは、確かにカンパニーに直接出るお金も必要なんですけれど、ほんとうは劇場やコンサートホールにちゃんとお金が出てそこに制作者と芸術監督がいて、そこの劇場の価値判断で作品やカンパニーを選ぶ、という方が健全じゃないかと。

浅井:そのほうが、劇場には個性があって芸術監督がいるのであれば、その個性で自主プロデュース作品は変わってくるわけだから、そこの多様性があれば担保できる気がしますよね。

小池:そう思います。つくばではやっていましたけれど、市長が変わって元の木阿弥になってしまった。一方では、そうした仕組みを作っておかないといけないでしょうね。

吉本:東京でそういうことをやっている劇場というと世田谷パブリックシアターだったり、ほんといくつかしかない。世田谷は野村萬斎さん、彩の国さいたま芸術劇場は蜷川幸雄さん、KAATは宮本亜門さん、東京芸術劇場は野田秀樹さん。箱に芸術監督がついて、なおかつ自分の劇場で制作できる予算を持っていて、県や市の予算に加えて国の助成金も入ってと、そういう形でやっているのは数えるほどしかない。こうした劇場がいまの5倍くらいないと。

浅井:そのほうが助成金の振り分けをどうするのか、審査員の人たちを教育したり変えていくよりいいかもしれない。それでもやはり不公平感は生まれるじゃないですか?

吉本:でもその方が健全だと思いますよ。劇場の個性によって多様性が保証されますから。

浅井:劇場が芸術監督のセンスでプロデュースできるところがもっと増えればいいということですね。

小池:吉本さんのおっしゃっていることは、半分は強く賛成しますが、半分はカンパニーをやってきた人間からすると、やはり誰が選ぶかという点では大きな疑いを持ってしまうんですね。さきほど、鶏が先か卵が先かという話が出ましたが、一時期は相当な痛みを伴う可能性があります。

箱ではなくソフトに投資するというやり方はどうか(浅井)

浅井:でも芸術監督なり、独裁じゃないにせよ劇場が何をプロデュースするのか選ぶというシステムに予算の流れを作ったらどうですか。

吉本:芸術監督には、自身が脚本家・演出家として作品を作るという形の芸術監督と、いわゆるプログラム・ディレクターという芸術監督の両方のタイプがあるので、そこは微妙ですよね。同じような機能を担うものとしてフェスティバルというのもある。それは箱を持っていないけれど、世界中から作品を招聘したり、委嘱したりする予算を持っている。フェスティバル/トーキョーのプログラム・ディレクターは非常に若い相馬千秋さんという人がやっていて、東京都と文化庁からお金が出ていますが、最終的には実行委員会形式になっているので、プログラムの内容はそこでアプルーブする仕組みになっていると思います。

小池:ただ結局は、ひとりのディレクターに帰さないと面白いものってできないんですよ。みんなで審議しましょうなんてやっていたら平均化するだけ。だから、任期を決めてきちんと任期中になにを行ったかを審議する仕組みが必要だと思います。評価基準も設けてね。そうしなければ、面白くはならないでしょうね。つまり私が思うのはプログラム・ディレクターと作品制作ディレクターは本来、両方兼ねることができる人がやるべきだと思うんです。そうなれば強く劇場の特色が出てきます。でもいないですけれどね。

吉本:芸団協や平田オリザさんが推進しようとしている劇場法というのは、法律がいいかどうかは解りませんが、ちゃんと方針と予算を持った公共の劇場をもっと増やして、そこに芸術監督を雇ってその方針のもとで作品を作れる劇場をもっと増やすべきだということだと思うんですね。

浅井:小池さんの不満を解消する方法として、こういうのはどうなんですか。パパ・タラフマラにカンパニーの公演をするための助成金を渡すのではなくて、小池さんがどこかの芸術監督になれば、プレイング・マネージャーとして年に1回パパ・タラフマラなりあるいはプロデュース公演の演出家としてでき、さらにプログラミング・ディレクターとしてやればハッピーじゃないですか。

小池:つくばでは昔、やっていましたよ。

吉本:そういう公共劇場をたくさん作ろうとすると、そういう政策を持った自治体がそういう方針で劇場を設置しないといけない。それが日本ではすごく少ないんです。

浅井:箱はあるんだから、箱をつくる必要はなくて、ソフトをそこに投げ入れて、ソフトに投資するというやり方ですね。

小池:そんな発想はないよなあ。基本、未だにハコモノ行政ですからね。未だに、浅井さんが言うようにハコはあるんだから、‘ソフト’へ移行すれば、と誰でも思うが、そんな流れは出てこない。わかりにくいからです。ハコは明確な形ですからね。文化は形としてはすぐには見えません。どうしても時間というファクターを入れ込まなければ見えてこないものです。それも5年、10年単位です。つい最近できた公共ホールなんですが、100億以上かけて作り、見た目はいいし、素晴らしいなと思いますけれど、実行予算がきわめて少なく、ワークショップしかできませんなんて言う。そんな話を聞いてしまうと、何のために作ったのかまったく解らない。あくまでそれが建設費を半分にして、半分を運営費にまわしたら、日本でも一気に知られた存在になるのに、と本当に残念です。

浅井:それは公共事業の予算の配分を変えていけばいいということ?

吉本:特に箱がいっぱいできたのは90年代で、地方公共団体の文化予算はピークが93年だったと思うんですけど、だいたい1兆円あったんです。その5割から6割は建設費に消えています。そうした構造的な問題が90年代にあって、今は3,000億前後まで落ち込んでいます。箱は膨大に増えたから、ソフトの予算も増えなきゃいけないのに、むしろ減っているんです。税収も落ち込んで財政状況が厳しく、行財政改革が進んでいますからやむを得ない面がある。その上、指定管理者制度が導入されて、文化予算はますます削られている。

浅井:指定管理者制度というのは、クリエイティブな部分に関わるんですか?

吉本:関わるべきなんですけれど、そういう枠組みを与えられていなくて、ただ効率的に運営するということを自治体からミッションとして与えられるので、そうならざるをえないんです。

小池:でも指定管理者間での競争があるので、やはりクリエイティブなことをやることでアピール度を増す必要があると考える会社は増えています。しかし、予算が付かない。効率運営しかないですからね、役所側は。結局、予算の振り分けの問題を考えるためには、文化予算はどういう役割を果たして、成果をもたらし得るのかということを問うて、いろんな機会で発言していかなきゃいけないなあと思うんですね。私自身の反省としては、それを自分自身としてやらなさすぎたということなんですよ。作品を作るということが全てでいいと思ってきた。でもそれ以上にいろんな提言をしなきゃいけない。発言をすることもそうだし、文章に書き起こしていくということも含めて、いろんなかたちでやっていかなきゃいけない。というのが解散のもっとも大きな理由です。

浅井:税収入が減っているので国家予算は減ってますよね。じゃあどう振り分けるか。箱はなにもしなければ維持管理でお金がかかるだけだけど、公演はプラスにはなりますよね。だから興行は必ずしも予算を食いつぶしていくわけじゃなく、ある種プラスの収入もある。入ってくるお金がゼロじゃないんだとしたら、そこのお客さんを育てていくことをすれば、減っていくばかりじゃないと思うんです。それだけじゃまかないきれないから、ソフトのところの運営予算をもっと組んでいく。そこでもっと劇場なり場所に出すという方法論のほうが、地域のコミュニティの核になるような気がするので納税者としては理解しやすいかな。

ポストモダン以降にポストモダンとしての物語をどう築くか(小池)

吉本:文化予算が削られているのは、現象として起こっていることで、でも為政者がこれからは文化が重要だという政策決定をして、それを議会が認めれば、それは分配はできるわけです。地方公共団体も含め、日本の文化政策がずっと抱えていた問題として、全体の予算が減ってしまうと、いつも福祉とか教育と比較されていちばん先に文化予算が削られるという構図がずっとあるわけです。

浅井:福祉と教育と比較すると、僕は福祉と教育のほうが大事だと思うけど、そうじゃなくて箱ものをさらに作るとか土木とかそういうものと比較しないと。

小池:ただ文化は福祉も教育も含むんですよね、本来は。文化的視点があってこその教育であり、福祉です。

浅井:配分の予算だとしたら、誰か政治家がちゃんといて、議会で通して、この町なりこの市なりこの県はこれだけ箱はあるんだからとしていけばいい。だってやる側にしてみれば廃墟だっていいわけじゃない。電気とトイレと水道があればなんとかできるんだから、箱に関してはお金がかからないし、僕らは立派な箱がいいという幻想を持っていない。だからソフトを作る方に予算を配分すればできるんじゃないですか。

小池:重要なのは、そんな配分の方法もあるよという提言をしなきゃいけない。

浅井:それはアーティスト側のプレゼンテーションが足りないということもあるかもしれないでしょ。なにか国内で成功例をひとつ見せればいんだよね。

吉本:でもそこで言う成功例というのをどういう尺度で捉えるかがいちばん問題なんですよ。多くの人たちは、さっきから話に出ているように税金使って何人入ったの、というのが常に最初にきますから。なので、助成した結果として観客動員だけで評価していたんじゃだめでしょ、というのはなんとなく解っているので、アーツ・カウンシルにもそこを期待しているんですね。

浅井:小池さんが「俺は芸術監督になりたい」と立候補したらどうなの?「選ばれたら市なり町なり県なりをもっと多様で豊かで住みやすい町にしてみてます」と。

小池:うーん。芸術監督だけやっても難しいでしょうね。同時に行うべきは教育改革でね。今はそれよりも、来年以降、別個の方法は考えています。なにかの組織に入るというよりは、できるだけ自分の言葉で語りたいと思ってましてね。だから、私塾を起こそうとも思っているし、もっと点を線に繋ぐような努力を別の方法で考えていきたいんです。

浅井:映画の分野でいえば、山形国際ドキュメンタリー映画祭がどれだけの経済的効果を山形市に与えているのか解らないけど、少なくともドキュメンタリーというジャンルにおいては、世界では知名度があります。それが山形市民のある種のプライドに繋がっているのか、あるいは経済的にも潤っているのか、そういう市民の動きが起きているのか解らないんですけれど、そういう例もありますね。

吉本:それを私はサイレント・パトロンと呼んでいるんです。自分は劇場には行かないけれども、人気のある作品だけじゃなくて、新しい実験的な活動もやっている劇場が自分の町にあることは必要だし、それを誇りに思えるような人がどれだけいるか。そういう劇場の活動に予算を配分することに賛成する市民がどれだけいるか、そこがいちばん重要だと思います。

小池:ただもうひとつ。日本っていう国はとにもかくにも、国際性を持たなきゃいけないと思ってきた。いろいろな意味で。国内だけで評価されるものは所詮、国内評価基準が当てはまっているだけで、世界基準が適応されていない。トップだとはとても思えなかったんです。日本では海外実績ではまず評価されないですから。こんな島国なんだから今まではやれたけどね、今後は国際的な視野を持たなかったらきわめて難しくなる。根底を強くしなくちゃ、今後は日本自体がなくなる。

浅井:映画の世界で言えば、映画祭という単位で見ると日本の映画は非常にこの20年、30年一気に外に出ていったと思うし、あるいはオルタナティブ・ミュージック、特にノイズ系の音楽は日本がある種オリジナルの国だと思う。世界の音楽フェスにも行ってる数は圧倒的に増えているし。インターネットが普及し、世界の情報がリアルタイムで入ってくるから、90年代以降そんなに国際的な視野がないということは、僕の感覚とは全然違うんです。確かに音楽とか映画はインターネットでデータ化されて乗っかっていくものなので、舞台は映像としては乗っかるかもしれないけれど、生の体験はそこではできない部分がある。

小池:いや、僕はそうは思わない。ノイズ・ミュージック含めて、外向的なひとつのおおきな物語を築くという発想ではなく、小さな物語を築く、あるいは自分の身の回りのことからものを見ていくということの延長線上にある。それはそれでいいものが出来ていると思うんです。でも一方で大きな物語を築くことをしないと。いま写真からなにから、賞によって選定される作品をみたら、テクニック的にうまいとか、あるいは自分の生活に身近だとか、それをはるかに越えていくような大きさのあるもの、強さを持っているものがすごく少ない。ポストモダン以降にポストモダンとしての物語をどう築くかという発想が消えてしまいましたよね。その思想を持たないと、たぶん世界というものが崩壊にしか向かわないと思ってるんです。

浅井:大きな物語というのは、国際的な視野を持った物語ということ?

小池:グローバリズムという意味じゃなくて、あくまで国際的な視野というのは、お互いが常に均等でいられる社会的発想をもとにするということです。どんな国の人とも対等の関係に立てるのか、ということ。60年代70年代の人って持とうとしなくても持っていた人って多い。それは体が外に向き、開いていたからだと思うんですね。外というのは国内であっても、人との関わりを濃密に持っているということ。いまみんな個に収まってるじゃないですか。オタクが日本を救うんだという話も相当出たでしょ。でもミクロコスモスの中だけに閉じこもっていたのでは広がりが出ない。ノイズ・ミュージックなんてまさしくそうですよね。ミクロ的にみればあんな面白いものはない。それは世界から見れば、特異ですから面白いとなるでしょうね。だから、世界で評価されたと喜んでもいけない面もあると思う。日本売りになっちゃいけない。でもマクロ的になるには、全体を見る思想が必要になってくる。だから思想自体がどうにも希薄になってきているような気がするんですよね。

浅井:僕は文化の多様性という言葉を突き詰めると、多様性の最小単位ってひと一人、個人じゃない。なぜ“多様性”がいいことなのかを考えると、それは“個”を認め、尊重しろということだと思う。逆から言えば“個”がそれぞれ違わないと多様性にはならない。多様性がいいという前提は個がそれぞれ違った美しさを放たなければならない。でないと、多様性と言っても実は多様じゃないと言う事になる。そして多様性な世の中こだわるなら大きなイベントや映画ではなく、小さな事がいっぱいあちこちで勃発する世の中が面白いと思います。インターネットという武器があり、メジャーなものの内容もシステムも崩れて来た今は“個”にとっては経済的には厳しいけど面白い時代になっていると思います。

小池:そうかな?個人に収斂されるような仕組みにはなってないですよ、日本は。日本はどうやっても世間社会であって、社会というものが育っていない。だから、ミクロはミクロの中に閉じこもるだけでしかない。

浅井:小池さんは面白い。僕の意見にきちんと対立してくれるので、そう言い切るならば自分を信じてやるしかないと思います。あとは読者と観客に判断してもらいましょう。

(構成:駒井憲嗣)



小池博史 プロフィール

パパ・タラフマラ芸術監督。演出家・作家・振付家・舞台美術家・写真家、P.A.I.(パパ・タラフマラ舞台芸術研究所)所長。1982年パフォーミングアーツグループ『パパ・タラフマラ』を設立。以降、全54作品の作・演出・振付を手掛ける。97~04年つくば舞台芸術監督、アジア舞台芸術家フォーラム委員長、国際交流基金特定寄附金審議委員(05年~11年)等さまざまな審議員、審査員等を歴任。
http://kikh.com/

吉本光宏 プロフィール

ニッセイ基礎研究所 主席研究員・芸術文化プロジェクト室長。89年よりニッセイ基礎研究所に所属。東京オペラシティや世田谷パブリックシアター、いわき芸術交流館アリオス等の文化施設開発、東京国際フォーラムや電通新社屋のアートワーク計画などのコンサルタントとして活躍するとともに、文化政策、文化施設の運営や評価、クリエイティブシティ、アートNPOなどに関する幅広い調査研究に取り組む。
http://www.nli-research.co.jp/company/social/mitsuhiro_yoshimoto.html

浅井隆 プロフィール

有限会社アップリンク取締役社長。webDICE編集長。1974~1983年、演劇実験室天井桟敷に舞台監督として在籍。1987年有限会社アップリンクを設立。映画プロデューサーとしてデレク・ジャーマン監督『ザ・ガーデン』『BLUE』、黒沢清監督『アカルイミライ』、シューリー・チェン監督『I.K.U』、矢崎仁司監督『ストロベリー・ショート・ケイクス』などを制作。




【関連記事】
小池博史が語るパパ・タラフマラ解散の全て「踊れる体を手に入れないと、そこから先の言語の獲得は難しい」(2011-06-24)




パパタラ ファイナルフェスティバル

『島~island』
2012年1月13日(金)~15日(日)

会場:森下スタジオ Cスタジオ
http://pappa-tara.com/fes/shima.html

『SHIP IN A VIEW』
2012年1月27日(金)~29日(日)

会場:シアター1010
http://pappa-tara.com/fes/ship.html

『パパ・タラフマラの白雪姫』
2012年3月29日(木)~31日(土)

会場:北沢タウンホール
http://pappa-tara.com/fes/snow.html

パパタラ ファイナルフェスティバル公式HP
http://pappa-tara.com/fes/




『ロング グッドバイ ―パパ・タラフマラとその時代』
著:パパ・タラフマラ、小池博史

*本鼎談から再構成した内容が掲載されています。
2012年1月上旬発売予定
208ページ
並製
2,415円(税込)
青幻舎
★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。
Amazonにリンクされています。


レビュー(0)


コメント(0)