Sam Wagstaff by Lynn Davis
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「メイプルソープとコレクター」、この映画は、メイプルソープの映画では決してなく、メイプルソープは、ある意味単に「出てくる」にすぎないと言っても過言ではない。時代の寵児、メイプルソープもまた、類稀な一人の才能溢れるある男の存在がなければ、私たちが知ることもなかったかもしれないのだ。
本映画は、キュレーターであり、コレクターであったサム(サミュエル)・ワグスタッフという人物を擬えたドキュメンタリーである。
ジェームズ・クランプ監督が、サム・ワグスタッフその人の深淵な佇まいや、彼が1960年代から80年代にかけてアメリカのアートシーンにおいて成し遂げたキャリアに惹きつけられると同時に、その果たした役割が多大であったにも関わらず時代と共に人知れず忘れ去られていくように感じ危惧の念を抱いたことが、この映画製作の原動力となったという。
キュレーターという文字を見かけるようになって久しいが、日本でキュレーターと言っても、まだまだ「学芸員」の域を出ていないことが多いように感じる。キュレーターは、ある意味でアーティストであり、また美術史を創りだしていく力、時代のなかで価値を見出し意味づけしていく力を求められるものだ。
サム・ワグスタッフは、そういう意味で真のキュレーターであった。アメリカで初のミニマルアート展「BLACK WHITE + GRAY」展を開催し、アメリカ美術史におけるミニマルアートの流れをつくりだし、また写真をとりつかれたかのようにコレクションし続け、まだ芸術的価値を完全には見出されていなかった写真を美術史のなかに位置づける。そしてときには、ポラロイド片手にふらふらしていた青年にハッセルフラッドを買い与え、惜しみないサポートで「写真家・メイプルソープ」を創りだしたりもしたのだ。その前には、メイプルソープの作品や悪童ぶりすら、吹いて飛ぶほどのとあるエピソードの一つにすぎないように感じる。
ドキュメンタリー自体は、サム・ワグスタッフという人を再発見し輪郭を擬えることに終始してしまっているようで、少し浅薄な印象を受けなくもなかったが、美術に疎い自分としては、「サム・ワグスタッフ」という人を知った衝撃で、本篇を観終わった後も、疼くようにココロがざわめいていた。
サム・ワグスタッフの凄味は、彼の生き方そのものが、彼の求める「価値」そのものであった点だ。彼の生き方が、新しい美の発見でもあった、という風に。ブレを微塵も許さない。全てがシンプルな価値判断に貫かれている。
そんな彼が、自分が自分であるための世界を創りだす様は、当然のように魅惑的で痛快だ。そしてそうして削ぎ落とし憑かれたように求める先に、彼が自身の原点への回帰ともいうべきコレクションを始める様は、自らが帰する「墓場」とも言うべくゆりかごを編んでいくかのようであり、それは彼が自らあえて手放し、しかし今となっては決して触れることもない、DNAが求めてやまぬ幻影への悲しい程の代償行為にも映る。
誰しもが成し遂げられるわけではないであろう自分にとっての完全なる世界を手にした男でも逃れられない人間の業、このドキュメンタリーにココロが捕えられて離れらないのは、そんな生と死を、観るものに儚く感じさせるからだろうか。
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memo
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ジェームズ・クランプ監督が映画の中で引用した、
ヴァルター・ベンヤミンによる一節:
ある部屋の室内というのは芸術品の避難所であり、コレクターこそがその真の主である。
コレクターは事物の意味付けを変容させる役割を果たすと同時に、事物を所有することで、物から「用具」である属性を拭い去り続けなければならないという無間地獄に陥る。事物に使用価値の代わりに彼自身が見出した価値を付与するのだ。
コレクターは、遠い世界あるいは過去の世界に赴く夢を見るだけでなく、同時により良き世界に赴く夢を見る。 世の物は役に立たねばならない、という単調なおきまりから解放されるような、そんな世界に赴く夢を。
Walter Bendix Schönflies Benjamin
"Paris, Capital of the Nineteenth Century: Exposé of 1939"
Louis Philippe, or the Interior