骰子の眼

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東京都 渋谷区

2013-03-02 20:52


レスリー・キー「私は死ぬまで、自分の作品を通して、世界中の人々に愛と希望と勇気を与え続けます!」

生い立ちからわいせつ図画頒布容疑逮捕までを語った独占ロングインタビュー
レスリー・キー「私は死ぬまで、自分の作品を通して、世界中の人々に愛と希望と勇気を与え続けます!」
インタビューに答えるレスリー・キー氏

2013年2月4日、東京・港区六本木のギャラリーhiromiyoshii roppongiで開催されていた写真展で男性器が多数写った写真集を販売したとして、写真家のレスリー・キー氏とギャラリーのオーナー兼ディレクターの吉井仁実氏、そしてギャラリーの女性スタッフの3人がわいせつ図画頒布容疑で警視庁に逮捕された。hiromiyoshii roppongiでは、2月2日からレスリー氏の写真展「FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」が開催されていた。2月6日、3人は処分保留で釈放された。

しかし2月21日、今度はこの写真集『SUPER MIKI』『SUPER GOH』を印刷・製本した印刷会社・八紘美術の児玉紘一社長と、次男で同社営業部長の児玉武志氏が、わいせつ図画頒布幇助の容疑で警視庁保安課に逮捕された。その後両氏は2月22日、釈放されている。

この事件に関して、「芸術かわいせつか」という論議を含め、世界中のメディアでは様々な報道がされているが、webDICEでは経緯をふまえたうえでの事実と、ふたりがどのような表現に挑んだのかを読者に知ってもらいたいと、レスリー氏に取材を依頼、インタビューを行った。レスリー氏は、これまでのキャリア、そして今回の事件について2時間にわたり率直に語ってくれた。

自分の作品が日本で「わいせつ」と言われるのは、
いまだにショック

── 今日は逮捕に至る経緯を聞かせて下さい。

日本の有名な本屋、例えば代官山蔦屋書店とTSUTAYA TOKYO ROPPONGI、渋谷パルコのLOGOS、渋谷のTOWER RECORDS、青山のワタリウム美術館の下のON SUNDAYSなどでも、世界有名な写真家が撮ったフルヌードが写ってる無修正の写真集をたくさん売ってる。たとえばリチャード・アヴェドンやテリー・リチャードソンなど、海外のファッション・マガジンも女性も男性も関係なく無修正で日本の本屋で堂々売っているし。なぜ私が撮ったメンズヌードのアート写真集を販売するのは逮捕されたのか、自分の作品が日本で「わいせつ」と言われるのは、いまだにショック。

もちろん浅井さんのメイプルソープの写真集の件、知っていますよ。警察署で「ロバート・メイプルソープの件では無罪だったのに、こういう事になって、なぜ私だけなんですか、本屋でも無修正写真集売ってますよ」と言ったんです。警察署の中で誰も信じてくれなかった、聞いてくれなかった、私はすごく悲しくて悔しくて悔しくてしょうがない。ダブル・スタンダードを感じた。

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今回の写真展で販売された写真集『SUPER MIKI』の表紙
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今回の写真展で販売された写真集『SUPER GOH』の表紙

── ギャラリーhiromiyoshii roppongiで最初にSUPERシリーズの展覧会を行ったのは?

2011年11月25日です。SUPERシリーズは私のライフワークです。写真展のタイトルは「FOREVER YOUNG」、テーマはすべてメンズヌードです。アート・ギャラリーで初めての写真展を開催したので、時間をかけて8冊のSUPERシリーズを同時発売しました。総合格闘家・秋山成勲の『SUPER AKIYAMA』、DA PUMPのメンバーで俳優の山根和馬の『SUPER KAZUMA』、AV俳優・真崎航の『SUPER PORNSTAR』、そしてモデルの『SUPER AKI KOMATSU』『SUPER TAKU』『SUPER TATSUYA』と『SUPER RYO』『SUPER UMENO』。

311の震災にあってから2年間でだいたい30タイトルくらい毎月続けてきました。最初のSUPERシリーズはレディー・ガガの『SUPER LADY GAGA』。ほかのコラボアーティストはアーティスト・浜崎あゆみ、モデルの冨永愛、デザイナー・山本耀司、女優・松田美由紀など。ほかのSUPERコラボはファッション中心で、例えばユニクロの『SUPER MAMA』、アルマーニエクスチェンジの『SUPER A/X HOPE』、西武渋谷の『SUPER POWER PEOPLE』など。実は私のSUPERシリーズの一番大きなインスピレーションは、アンディ・ウォーホールの『インタビュー・マガジン』です。

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DANNY & TEDDY PRESS 今までに出版した写真集とSUPERシリーズ

── 表紙が似ていますね。

サイズもこだわっていて、『インタビュー・マガジン』はもう少しグロッシーだけれど、そのかわり、マット質感のアート紙を使っています。私の好きなフォトグラファーは、リチャード・アヴェドン、アーヴィン・ペン、ブルース・ウェーバー、ピーター・リンドバーグ、デイヴィッド・ベイリー、テリー・リチャードソンとたくさんいます。男をかっこよく撮るフォトグラファー、女をかっこよく撮るフォトグラファー、子供をかっこよく撮るフォトグラファー、そしてドキュメンタリーをかっこよく撮るフォトグラファー、いつも写真からたくさんの力をもらいました。

── モノクロのカメラマンが多いですね。

そうですね。モノクロって色が見えないかわりに想像力を高くすることができるでしょう。ただしフォトグラファーになって15年だけれど、東京の仕事でモノクロの仕事ってほんとうに少ない。だから自分の作品だけしかなかなか表現できないんです。でも、コマーシャルのときでもなるべくADやクライアントに必死にモノクロにしたい!と言う。よく現場では「またレスリーがモノクロにしたい、と言ってる」と言われてますよ(笑)。

── カメラはフィルムですか、デジタルですか?

フォトグラファーになった1998年から2001年までの4年間は、全部フィルムでした。35mmも、ミディアム・フォーマットも使っていました。2001年のゴールデンウィークあたりに初めてニューヨークに行きました。それは、日本のある有名なファッション・ブランドの仕事で、私をキャスティングして、向こうのスタッフと一緒に世界で一番人気なスーパーモデル・CARMEN KASSを撮影したのですが、そこでニューヨークの有名なエージェント、ジェッド・ルート(JED ROOT)が私の写真とエネルギーとキャラクターに興味を持ってくれて、「あなたは絶対ニューヨークに来たほうがいい」と言われました。東京の周りの先輩たちですら簡単にブックを見てくれない、それぐらいのエージェント。そこで、私もわけが分からない状態でニューヨークに行ってしまいました。

ニューヨークで4年半くらい住みました。その間は向こうの雑誌、広告、アーティストをいっぱい撮影して、なによりも、行ける本屋をすべて行って、今まで学生時代お金がなくて買えなかった、神保町で見つからなかった写真集を、全部そろえました。リチャード・アヴェドン、アーヴィン・ペン、ブルース・ウェーバー、ピーター・リンドバーグ・デイヴィッド・ベリー、グレッグ ゴーマン、ハーブ・リッツなどの全ての写真集を4年半かけて揃えました。それが私のニューヨークのいちばん幸せなエピソードかな。毎日撮影して、時間があったら本屋に行ったり、そこのいろんなギャラリーやキュレーターやフォトグラファーと会ったり、本を交換したりした日々でした。それでも毎月東京に帰ってきて撮影して、とても忙しかった。すごいラッキーでしたね。

私は93年に東京に来たんですけれど、そのとき23歳でほんとうにお金がなかった。シンガポールで生まれたときはお父さんがいなくて、シングルマザーで育てられて、お母さんは13歳のときに癌で亡くなって、私も中学を卒業せずに、すぐにシンガポールの日系工場で働きました。6年半働いて、お金を貯めて、妹に学費を払ったり、好きなレコードを買ったりしました。アカイとか日立のカセットテープを作る日系工場だったので、13歳から19歳までは日本の音楽しか聴いていませんでした。箱とかテープを作るスクリューとかをやっていました。その工場で出会った日本の人が、日本の音楽を薦めてくれたんです。

84年、5年でアイドルといったら中森明菜、松田聖子とかキョンキョンとかチェカーズがとても人気があって、当時のフジテレビの『夜のヒットスタジオ』とかNHKの『紅白歌合戦』がシンガポールのテレビ局でも放送されていたんですよ。字幕入りで日本語で歌ったりしゃべったりしているのを見ていたので、私は日本語を学ばなかったんだけれど、日本人が95パーセント以上の工場で6年半働いていたから、自然に「ありがとう」「こんにちは」とか日本語を覚えて、日本の文化や音楽に影響されました。私はユーミンがすごく好きになりました。いつか日本に来て、ユーミンのコンサートを観たい、ユーミンに会いたい、というのが夢だった。それで、10年間お金を貯めて、東京に来ました。23歳に日本に来て、新宿の日本語学校に一年半通って、アルバイトは新大久保と池袋と中野と新宿あたりで皿洗いとか掃除、中華料理、パチンコ、キャバクラの掃除とかいっぱいしました。そして、お金を貯めて東京ビジュアルアーツ写真専門学校になんとか入りました。

カメラのおかげで人と会話できるようになった少年時代

── なぜ写真の専門学校に行こうと思ったのですか?

お母さんが亡くなる4ヵ月前、13歳の誕生日にお母さんに「妹を撮りたい」とお願いして、ミノルタのカメラX-700を買ってもらったんです。子供の頃の自分の写真がなかったので、学校に行ったときにコンプレックスだった。小学校で友達やクラスメイトが集まって、夏休みのお父さんとお母さんとの写真を出しているのに、私はぜったい出せなかった。お父さんもいなかったし、お母さんもずっと働いていたし、おばあちゃんと暮らしたり、貧乏だからお金ももらっていなかった。だから、まだ5歳の妹に、私みたいに大人になって自分の写真がない人間になってほしくないと思った。妹は、違うお父さんでした。うちのお母さんは水商売をしていたので、シングルマザーで私と妹を一生懸命育てた。フィリピンやタイやインドネシアは、特にそれが多いんです。

おばあちゃんによると、私のお父さんは日本人かも、といつも言っていて、だから私は日本人に縁があるなと思いました。でも、証拠がないので、私の名前はレスリー・キーとシンガポールの家族の名字でずっと続けているけれど、たぶん本当のお父さんは一生見つからないと思います。

私は13歳から、母にもらったミノルタの35mmm一眼レフカメラで、コダックのフィルムを使ってサービスサイズで焼いていました。妹が私の初めてのモデルで、自分の自慢の作品です。工場で働いていてもいつもカメラを持っているから、たまに人を撮ったりしていて、周りの友達のなかでは、「写真を撮ってる少年」と思われていました。写真は私に勇気をいっぱいつけてくれました。だって、昔はもっとコンプレックスがあって、話もできなかった。カメラのおかげで、人と会話できるようになったんです。

シンガポールは台湾や韓国と同じ徴兵制ですから、軍隊も2年間、19歳から21歳まで行きました。その後、2年間は貧乏旅行をしました。シンガポールからバスに乗って、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、インド、ネパール、チベット、モンゴルと、全部ひとりで旅しました。本当に少しのお金で、とにかくバスばっかりで、どうしてもバスに乗れない場合は安いチケットの飛行機に乗って次の国に行って、旅の写真をたくさん撮りました。

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常に持ち歩いているというSUPERシリーズを広げ、Youtubeを見ながら取材は行われた。

── デジタルと違って、フィルムを買って現像するのもお金がかかりますよね。

工場で働いたお金を必死に貯めました。とても貧しい子供時代だったので、旅をして他の国の子供たちに会って、話して、元気を伝えられたらいいな、写真を撮ってあげたいと思いました。

── 自分のお金でカメラを買ったのはいつですか?

96年、東京ビジュアルアーツ写真専門学校に入る時に買いました。ミディアム・フォーマットのマミヤ645。その時はまだブローニーで、マミヤ645は長かったですね。98年にフォトグラファーになってから、子供の頃からずっと目が良くなくて、フォーカスにちょっと時間がかかってしまうので、周りの人の薦めで、オートフォーカスができるペンタックス645を買いました。

── プロフェッショナルのカメラマンになるために、誰かのお弟子さんに入ったのですか?

卒業してから、スタジオも10件行以上面接行ったし、有名なフォトグラファーにいっぱい面接に行きました。伊島薫さん、富永よしえさん、m.s.parkさん、Brunoさん、とにかくノンストップで面接に行ったんだけれど、東南アジアの学生だからビザを作ってくれないし、面接は全部落ちてしまった。でも私は本当に日本が好きだから、私にとって唯一無二の夢の国だし。どうしても日本に住みたいと、必死でいろんな人に協力してもらって、東京のモデル事務所のモデルさんを借りて、数百回以上のテスト・シューティングをしてポートフォリオをいっぱい作って、必死にブックを見せたりしました。だから、特には誰がきっかけではないです、出会った日本にいる人達全てのおかげです。

でもひとつ間違いなく大きかったのは、モデルの山口小夜子さんがナウ.ファッションというモデル事務所、日本では40年間以上続けているモデル・エージェンシーがマネージメントしていて、私はナウ.ファッションのモデルさんもテスト・シューティングしていたんです。ナウ.ファッションの社長の岩崎さんが私が撮ったモデルのコンポジットを使っていて、小夜子さんが事務所で、私が撮った写真を良かったと言ったらしいんです。それで小夜子さんから初めて仕事をもらったのが『家庭画報』でした。「この新人フォトグラファーに頼んでみよう」という感じ(笑)。山口さんが亡くなる前、98年のことでした。

小夜子さんが日本の雑誌で撮るきっかけをくれましたが、同時に、いろんなモデル事務所に行きました。アルバイトをして昼に1時間でも30分でも時間があったらアポイントをとって、こんな感じでブックを見せて。だから、昔も今も変わっていないですよ。必ず事務所に行く時は「私こういうものを作ってますよ」って持って歩くタイプだから。それで「モデルさんひとりでもいいから貸してくれませんか」、洋服屋さんに「貸し出してくれませんか」とお願いして回りました。当時中野の古いアパートに住んでいて、電話もないから、いつもポケットベルや公衆電話で電話したりしていました。親戚もいないし、友達も少なかったし、あのときはまだ日本語が下手だし読めませんでしたから、大変でした。

人生を変えたユーミンのために写真展を開催

── 工場でユーミンの曲を聴いていたレスリーが、ユーミンを最初に撮ったのはいつでしたか?

2001年の5月にやっと撮影することができました。98年に『家庭画報』の仕事をいただいて、すぐ東京のすべてのファッション誌が私に声をかけてくれました。「なぜあんなにラッキーだったのか」と聞かれるのですが、私もよく分からないですけれど、私が80’sが好きで、アヴェドンとかウェーバーあたりに影響されて、彼らのようなエネルギッシュな動きを学生時代に必死に撮っていたので、当時あった『high fashion』や『流行通信』のように90年代の写真はクールビューティーが多かったので、私のポートフォリオがとても新鮮だったのかな。まだ日本では『VOGUE JAPAN』も『ハーパース・バザー』もなかったですが、すぐ『SPUR』『MEN'S NON-NO』『SPRING』『FIGARO』とか、あの時一番売れてる雑誌からの仕事が増えてきて、一年半後に海外の『VOGUE TAIWAN』と契約して、今も15年間『VOGUE TAIWAN』で毎月撮っています。

いい人と出会えた事がラッキーだと思います。ふたりの女優さんとひとりの編集者にとても感謝をしています。藤原紀香さんと木村佳乃さん、そして当時『VOCE』の副編集長だった関(龍彦)さんです。98年にデビューして、仕事がバンバン来るようになって、2000年にFEMMEというエージェントに入りました。世界文化社が私に1年間、『MISS』の表紙を紀香さんとコラボで毎月撮っていました。当時紀香さんはちょうど松任谷正隆さんと今田耕司さんと日本テレビの『FUN』という音楽番組の司会をやっていました。私は、毎回撮影の時にユーミンの音楽をかけていたので、紀香さんも「レスリーという東南アジアのフォトグラファーで、名前が外人だけど見た目はアジア人でユーミンが大好き」だと分かったのだと思います。同じ時期『FRaU』で、木村佳乃さんと連載のようなかたちでよく会っていて、同じシチュエーションで撮っていました。そこでもいつもユーミンをかけていて、佳乃さんはちょうどイギリスに住んでいて東京に帰ってきて女優活動がはじまったばかりのときで、音楽活動をしていたときのプロデューサーが松任谷正隆さんだったので、佳乃さんがユーミンと仲良くなり、彼女もユーミンに私の事を伝えてくれたんです。

今は『FRaU』の編集長の関さんは、20年以上前『Delight Slight Light KISS』(1988年)『LOVE WARS』(1989年)あたりのアルバムのときは『ViVi』の担当でした。ユーミンは毎年年末アルバムを出して普段は雑誌に出ないけれど、『ViVi』の6ページ、8ページには登場していて、関さんはユーミン担当としてずっといい関係があった。ただし、関さんも『VOCE』をやることになって10年くらい会ってなかった。でも私と毎月関さんと『VOCE』の表紙をやっているから、どれだけ私がユーミンが好きかよく分かっていたので、ある日、2001年にユーミンがニューアルバム『acacia』を発売して、香港でもライヴをやるから、これはいいタイミング!と優しい関さんから「あなたのためにページを作るからレスリーとユーミンの夢のコラボ撮影をしよう」ということで、2001年の5月13日に初めてユーミンとフォトセッションをすることができました。そのときが30歳です。

── 日本に来てからユーミンのコンサートは何度も行っていたのですか?

もちろん!93年から毎年。いつも一番いい席で観たいから、当時は良くお金貯めて、会場の前で見た目が怖いダフ屋と交渉して、5万円から10万円も払っていましたよ。

── 本人と会ったときは?

夢みたい。会ったときに、ユーミンがすごく暖かくて「あなたと昔会ったような気がする」と接してくれて、撮影もすごくよかったし、あれから12年間ずっとユーミンとたくさんのファッション誌、ジャケ写、ツアーパンフレット、そして何よりもいろんな国で撮影できた。それが私のストーリーです。

── ドリーム・カムズ・トゥルーですね。

この前、37日間、ユーミンの40周年をお祝いするために、表参道ヒルズで写真展をやったんです(「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」2012年12月1日~2013年1月6日 表参道ヒルズで開催)これは私が12年間ずっと撮り貯めた作品で、私の人生最大な夢!人生で一番尊敬してるユーミンと松任谷正隆さんに感謝の気持ちを表したいです。実は写真集印刷、写真展会場費、イベント製作費、写真展宣伝費など合わせて6,000万以上の借金をして作った写真展で、なんと5万人以上来場しましたよ。感謝の気持ちを込めて、この豪華なユーミン40周年記念写真展は、日本全国のみんなに見てもらいたいので、もちろん入場無料にしましたよ。私にとってお金の金額はどうでもいい、一番大事なのは「心」です、だからこれは「幸せな借金」です。このチャンスを作ってくれたユーミンと松任谷さんと全てユーミンのスタッフにすごく感謝。

── 今も借金を抱えているのですか。

そうです。でももともとなにもないから。そんな私がここまでこれたユーミンへの感謝のために、草間彌生さんとか、鳩山幸さんとか、吉永小百合さんと桃井かおりさん、小田和正さんなど100人くらいのアーティストにお願いして、特別に手書きのメッセージを書いてもらいました。表参道ヒルズで今まで最大規模の写真展として、映像も流して、写真も400点展示して、写真集とレコード・アート・ボックスも作りましたし、映像も作りました。撮影のためにロンドンやアイルランドやいろんな国に一緒に全部行きました。日本のためにユーミンに一日も長く生きてほしいし、私のファンは若い人が多いけれど、今の若い人はAKB48とかK-POPとかアイドルしか聴かないから、ユーミンの素晴らしさをもっと若い世代に伝えたいと思いました。会場で13回もトークショーをしましたよ。写真展の初日レセプションパーティーの会場で600人の関係者、アーティスト、編集長に集まってもらって、ユーミンがゲストで、40周年のセレブレーションをしました。

ユーミンは私の人生を変えました。1972年から40年間、ほぼ毎年アルバム・コンセプトをきちんと松任谷正隆さんと一緒に考えて、必ず1枚最高なオリジナル・アルバムを作る。シンガー・ソングライターとしてオリジナルの曲、歌詞、ツアー、ステージ、全部こだわって続けている。こんなアーティストは世界でユーミンしかいない、間違いないでしょう!こういうライフワークにすごく尊敬します。フォトグラファーと一緒です。毎月、雑誌をやったり、何年かに1回は写真展をやったり本を出したり、そういうアーティストは憧れです。

興味があるのはヒューマン、アート、レボリューション、
そして次のジェネレーション

── ずっとコマーシャルなものを撮っているなかで、吉井さんのギャラリーで展示したアート作品も撮りためていたのですか。

2004年ニューヨークにいた頃からからずっと撮りためていて、いつかどこかのタイミングでアート・ギャラリーでやりたいなと思っていました。吉井さんと会ったのは2011年の震災の後です。同じ表参道ヒルズで、2011年の5月、震災の2ヵ月後に世界の有名な美しい人、シンディ・クロフォードやレディー・ガガやオノ・ヨーコとか幅広い女性のポートフォリオを200枚作り集めて許可をもらって、チャリティーの写真展「TIFFANY supports LOVE & HOPE by Leslie Kee」をやりました。自分で交渉して、世界のラグジュアリーブランド・ティファニー(TIFFANY)に5,000万円出してもらいました。やっぱり伝えること、必ず会いたい人に自分で手紙を書いて「会いたい」とシンプルな言葉で、それがいちばんリアルだと思います。なるべく自分の気持ちをみんなに伝えていく、写真で人生は変えられるよ、ということを伝えるために、大きな写真展を開きました。

毎回、何万人集まった、という記録を作るのが大事なのです。ティファニーはオリジナルのアーティストに出てほしいから、私が浜崎あゆみさんにお願いして、友情出演で全身ティファニーを付けてもらって、その写真集の、表紙の写真を撮りました。そして表参道ヒルズで大きいなチャリティー写真展をやって、写真集5,000部を売り切って、売上を日本赤十字社に1,500万円寄付しました。日本のティファニーのフランス人社長と一緒に目録を作って日本赤十字社の会長に直接渡しました。翌年2012年の3月、私はその作品「TIFFANY supports LOVE & HOPE by Leslie Kee」で、APA経済産業大臣賞を受賞しました。

── この企画はどうやって生まれたのですか?

3月11日、私はその日も撮影があって、ちょうど自分が尊敬しているアート・ディレクターの井上嗣也さんの事務所で打合せしていました。その途中地震が起こりました。撮影が終わってから夜の12時30分に渋谷の青山学院の家に帰って、マンションの7階に上がってドアを開けたら、本棚とハードディスクがぜんぶ倒れていました。自分の作品がそのようになってすごく悲しくて、ニュースを見たらとても大変な状況になっていました。私はアシスタントと友人4人で車を借りて、仙台と岩手県に行って、延々写真と映像を撮りました。東京に戻って、そこで撮った写真をすぐティファニーの社長に見せて「チャリティーをやりたい」ということを知らせたんです。だからティファニーの社長がOKをくれたのは、3月の20、21、22日に岩手県と女川で撮った震災後の写真があったからです。

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岩手県と女川などで3日間かけて撮った震災1週間後の写真(2011年3月20日-22日)

── 写真展としては震災の写真ではなくビューティーがテーマになったのですね。

震災の写真を見せるわけではなくて、私は、もっと前向きに進めなくてはいけないと思いました。現地で撮ったドキュメンタリー写真は、会場の最後のところに飾りました。写真展のメッセージは、女性の美しさ。女性は子供を作って、美しさ、愛と希望は彼女たちの表情から生まれるもの。震災直後で、ファッション業界も音楽業界もテレビ業界も映画業界もみんな止まっている。でも私は違う、止まっちゃだめ。発信する人だから、福島とか岩手県の人たちがみんな苦しんでいても、私たちは元気でやっていかないといけないから。それをみんなにさせるために、女優さんもマスコミも浜崎さんも呼んで、逆にめっちゃ豪華で超派手な写真展をやりました。暗くいては何も変わらないから。

たぶんこの写真展に(吉井)仁実さんが来ていて、初めて会ったんだと思います。私の写真と活動を分かってくれました。その前に何回も写真展や本を出しているけれど、みんなファッション・フォトグラファーとか芸能人カメラマンとしか思われない。私はアートももちろん好きだけれど、もっと深いところで、何か社会貢献をしたい、この好きな国・日本をもっと幅広い気持ちに、大きくしたかった。自分が好きな70'sから80'sには、坂田栄一郎がアメリカから帰ってきたり、繰上和美さんがバリバリやっていたり、篠山紀信さんや荒木経惟さんや横須賀功光先生や稲越功一さん、もっと昔であれば木村伊兵衛さんとか秋山庄太郎さんとか、ジャパニーズ・パワーがいっぱいあったのに、自分が東京に来てフォトグラファーになった98年はミレニアムの2年前だから、エネルギーは死んでいました。コマーシャルのためにしか生きていなかった。

私はお金は本当に興味ない。興味があるのは、ヒューマン、アート、レボリューション、そして次のジェネレーション。でもなぜか周りにいる大勢のクリエイターはあまりそういう事を考えていない。これまで会った大きな企業で勤めてるアート・ディレクターやデザイナーなどはほとんど、とりあえずクライアントを喜ばせるために自分の魂を消して、本当の気持ちを殺す。一部の素晴らしいクリエイターは私みたいにやっているけれど、昔はもっと多かった。今の割合を見ると、フォトグラファーも昔より多いし、クリエイターも倍以上いる。その代りに根性のあるクリエイターが少ない。だから、バランスが悪い。もし私が70年代、80年代の東京にいたならば、ただ仕事していて平和に過ごしていていいという奴もいたし、アートに希望を持っているクリエイターもいたかもしれない。でもきっとそのときのバランスのほうがちょうど良かった。なぜならば、フォトグラファーも映画監督も少なかったから。今の時代はみんなクライアントのこととか合わすことだけが精一杯、仕事を失わないために、広告作りは冒険しない、新しい提案もしない、とにかく一番安全なやり方で進める。その考え方のせいで、クリエイティビティは低くなる、新しい挑戦も受けなくなる。心配ばかり、平和ボケの時代になってしまう気がする。

今回の私のメンズヌードのアート写真展は、一番いい例になったと思います。今まで、日本では女性ヌードの写真展と写真集は山ほど出されたけれど、男性ヌードというテーマは、日本のメディアはまだ受け入れることに慣れていない。だからすぐ「わいせつ」を思ったのでしょう。本当に日本のメディアがアートに対して知識が低すぎる事で、びっくりしました!島根県のダビデ像に「下着をはかせろ」という苦情がきたことが海外で話題になっている件も、本当にショック!2013年の今、まさか日本はこんな事で問題になるというのはとても残念。

でも、アーティストは挑戦しないと新しいものは生まれない。私はその時代に写真家の先生たちと会いたかったなと思った。大好きな先生たちの弟子になれない事で悔しかった。でも悔しいままではしょうがないから、私は今の時代で、先生たちが作ってきたものを大事にして、今の時代の若者に伝えたいと思っています。だから私はたくさんの写真展をやったり、本を出版したりすることが、今できることかなと思いました。

── 吉井さんはそこで、ファッション・フォトだけどもなにかあるな、と思ったのでしょうね。

私がやってきたのは、アート、エンターテインメント、ファッション、イベント、コマーシャル。でも吉井仁実さんがやるのは、完全にアート。あれから私は毎月写真展をやって、仁実さんもよく来てくれることによって、徐々に私の写真に興味を持ってくれて、夏の終わりくらいに私に「hiromiyoshiiギャラリーで、レスリーをキュレーションするから、ぜひやらない?」ということになりました。

私がメンズヌードを撮っていることは、周りはみんな知っていることでした。私は必ず自分の写真集のなかで2、3点くらいメンズヌードを入れるんです。2006年の11月11日に自分で借金してスマトラの津波のために640ページの写真集『SUPER STARS』を作りました。日本、中国、韓国、東南アジアの300人のアーティストを2年間かけて撮りおろししました。『SUPER STARS』というタイトルですが、私はみんなに当たり前のことはさせたくないので、ユーミンから中田英寿、坂本龍一、中国女優のチャン・ツィイーからオリンピックの金メダリスト選手達まで、いろんな人がいるなかでわざと「この人誰?」という人を入れようと、6人は自分で出会ったストリートのダンサー、自分で出会った若手の舞台俳優さんやモデルに交渉して脱いでもらって、裸の写真を入れました。それが私から見たSUPER STARSという存在。尊敬してるアヴェドンもそうじゃないですか。私もそういうコンセプトとアイデアを使いました。

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『SUPER STARS』300人の日本とアジア著名アーティストと、スマトラ津波のチャリティー写真展、表参道ヒルズ(2006年11月11日-19日)

あの時から「レスリーは大胆に裸のまま撮って載せる写真集を作ってる」と知られるようになりました。まさか2011年に仁実さんと会えると思っていなかったので、みんなに少しずつ分かってもらいたい、5年とか10年かかるかもしれないけれど、時間をかけてやりたい、と思っていました。でもキュレーターからのオファーがあって、ちょうど自分も2011年で40歳だし、やっとタイミングが来たな、と思いました。そこで、『FOREVER YOUNG』という初めてのメンズヌードの写真展を2011年11月25日から、1月終わるまで2ヵ月やりました。SUPER NUDEシリーズを8冊出して、反響が良くて、いろんな人が来てくれました。海外の人もたくさん見にきた。でも、まさか今回の事件で、私の傑作のSUPER NUDEシリーズはほぼ1万冊以上、ぜんぶ押収されてしまいました。とてもショック!

── ネットのなかでは、モデルがOKしていない写真をレスリーが展示したりした、と出ていましたけれど、それはどうなのですか?

それは何百人も撮っているので、モデルさんの中には、2、3人は少し不安に感じた人や「私はあの写真展を見ていやだと思った」とtwitterで書かれたりしたかもしれないけれど、伝えたい事は分かってくれたはずです。アートに知識があまりないモデルは、ちょっと理解するのに時間かかる。でも撮った被写体のモデルさんはほとんど理解してくれますよ。「SUPER TOKYO」は1000人のヌードも撮ったし。私は先を読んでいるから、業界の中で「進みすぎてついていけない」、と皆良く言われるけれど。アーティストとしてそれは関係ありません。私は進めるものを進めたい、それがとても大事な気持ち。例えばこのSUPERシリーズのコンセプトはすべて50ページで、タイトルにSUPERと出ていたら、コラボ相手は山本耀司、浜崎あゆみ、レディー・ガガ、ユニクロ、アフリカの民族や動物、何でもOK。私は一番興味があるのは“THIS IS”、シンプルに強く語るのが好きなんです。そしてたまたま今度のは“THIS IS NUDE SERIES!”。全てのテーマは同じ、無差別ということなんです。

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『SUPER LADY GAGA』の表紙

── このレディー・ガガの写真集は?

ガガが来日したときに撮影した大好きな作品。毎回、写真が勝負なんです。何を言っても、写真がいちばん伝えられるんです。例えばこういうインタビューで聞かれたときにもちろん説明しますが、ほんとうは説明もなんにもいりません。Just look at it and you will and understand. 見たら分かるじゃないですか。分からない人は、いつか分かって、ということなんですよ。私は死ぬまで撮り続けるという運命があるから。なぜ撮り続けることができるかというと、恩返し。お母さんに私がこの生命をくれて、カメラと出会ってdestinyがあって、カメラとともにこの世の中でほんとうに信じている愛情、平和、夢、希望、勇気をどんどん与えていこうと思ったんです。

日本にないものを撮りたいとこのメンズヌードを撮った

── 吉井さんのギャラリーでなぜメンズヌードをやろうと思ったのですか?

日本というこの国は、女性のヌードがほとんどなので、日本にない珍しいテーマを撮りたいと思った。答えはそれだけです。私はファッションが好き。でもポートレートはもっと好き。女も男の裸に対する美しさはよく分かる。生きるというテーマをずっと表現してる。でもそれだけじゃなくて、今の日本にないものはなにかと凄く考えて、observationしました。写真家・荒木経惟も大好きだし、篠山紀信の活動も大好きだし、三島由紀夫に影響されているところもあります。ひょっとしたら、このメンズヌードというテーマで、時代が、考え方が変わるんじゃないかと思いました。

この15年間はフォトグラファーになって、周りに一緒にしている女性たちは強いと思いました。エディター、クリエイター、スタイリスト、モデル、デザイナー、女優、そしてアシスタントも女のほうが強い。男のほうが弱くなってきた。だから写真を通して、「強い男性像」を作って、日本中みんなに見てもらおうと思いました。強い男を表現するためには裸で表現する。今までみんなはコンプレックスがあるかもしれないし、恥ずかしいと思うかもしれないことを、リアルで撮って見せたかったのです。

── 2年前もフルヌードの写真だったのですか?

もちろん。2011年は8冊も出版したよ!8冊全てモデルさんと誇りを持って、時間をかけてモデルと一緒に一生懸命撮った作品です。ライティングも写真編集もとてもかっこいい。海外でもとても評価が高い。今回より前回のほうが作品ももっと多かったし。だって2006年に出版した「SUPER STARS」というスマトラ島沖地震のチャリティー写真集と写真展のときも、300人のアーティストの中で数人の男性と女性は、隠したものも隠してないものもありました。杉本彩さんは裸で撮らせてくれた。私はずっとテーマを変えずに撮ってる。

── なぜそのとき警察は何も言わず、写真集も売っていたんでしょう?

だから、私もまったくよく分かりません。業界の友人達、アーティスト達も今回の事件がとても不思議だと思った。だって本当のわいせつなポルノ写真と映像を製作をしている人は日本中の裏でたくさんいるのに、なぜ彼らは捕まらないの?私はもちろんわいせつな写真を撮っていないし、だから悲しいです。メディアにめちゃくちゃな事書かれている、私の事を知らない人は本当に誤解されそう。

── 今回の展覧会は、最初にパーティーがあったんですね。

2月の2日、いつもどおりFACEBOOKとtwitterで告知しました。FACEBOOKは1万人、twitterは4万人フォロワーがいて、計5万人ぐらいには分かりやすく、どこで写真展をやるので、みんな招待状なしで来てください、いくらでもウェルカムするしサインします、と知らせました。だからいつも何百人、何千人来ます。

── オープニング・パーティーが問題なく終わってから、どうなったのですか?

日曜日も撮影していて、月曜日も朝6時から撮影をやっていて、その現場に、1時4分、刑事が逮捕状を持って来て、手錠をかけられて、浅草の警察署に連れていかれました。びっくりしました。「あなたは2月2日にわいせつな写真集を出して写真展を行なって、5冊の『SUPER MIKI』と2冊の『SUPER GOH』を○○さんが買った」という証明を見せられました。いつもモデルの名前をタイトルにつけるんです。MIKIは舞台俳優さん、GOHはトラック・ドライバーです。

── 浅草署でどんなことを聞かれたのですか。

2時から夜の11時まで小さな部屋でずっと質問をされました。いまと同じようなこと「なぜ写真展をやるのですか」「なぜメンズヌードをやるのですか」「なぜhiromiyoshiiギャラリーでやったのですか」「これはわいせつだと知っていますか」。私はアートだと思っているから、同じ答えを繰り返し答えていました。答えたことの90パーセント以上はFACEBOOKとtwitterで書いています。

次の日は、すごく優しい弁護士が来ました。とてもいい弁護士でした。すごく悲しい気持ちだった私を落ち着かせてくれた。

── なにかアドバイスはありましたか?

アドバイスよりも、「自分の事を信じてください」と言われました。「あなたのアートを信じればいいから」と。そういう意味で、私はいまだに変わらず、芸術として撮っていますから、わいせつという意味がよく分からないです。

── 2日目はまた取り調べがあったのですか。

午後からいっぱい調べられて、同じことを聞かれました。「どこで印刷したか」「誰があなたと吉井さんを紹介したのか」「この本を印刷するのにどうやってお金を集めたのか」そして、当然私の活動についても聞かれました。でも、ネット上の記事やYoutubeを何十本も見れば、どれくらいの写真展をやって、スポンサーもないし、借金をしてやっているということは、分かりますから。

── 刑事さんもFACEBOOKを見たうえで質問しているのでしょうか。

たぶん見てないと思います。「せっかく一生懸命書いてるから、見て欲しい」と言いました。

── 検察にはいつ行ったのですか?

霞ヶ関の検察には水曜日の朝行きました。みんな順番で、呼ばれたら説明してくれました。「あなたの写真は、日本では印刷したらダメって知っていますか」と聞かれて、私は「知りません、アート・ギャラリーですから」と答えました。1時間くらいしゃべって、最終的には私の写真が日本の法律ではわいせつに当たること知らなかったという認識不足を認めてもらいました。だってほんとうに知らなかったんです。アート・ギャラリーでやるという条件で、写真展をやるから、問題ないと思いましたし、1回目やったときも問題なかったのですから。私にとって人生一番悲しい2日間だった。

── いつ釈放されたのですか?

いちど浅草署に戻って、水曜日の夜の9時半に釈放されました。マスコミが外で待っていました。浅草から霞ヶ関に移動するときもマスコミが外にいっぱいいて、すごくショックでした。あんなに集まるとは思いませんでした。逮捕されたときに携帯も全部取られて、外の事が分からなかったので、女優さん、役者さん、歌手みんながメッセージをtwitterやFACEBOOKやブログで書いてくれていたのが分からなかったので、釈放されたときに、車のなかでずっとiPadを見ていて、すごい泣きました。浜崎あゆみさんや冨永愛さん、藤原紀香さん、松任谷正隆さんやいろんなデザイナー、アーティストがみんな自分の名前でメッセージをくれた。不安だった人もいると思いますが、彼らはみんな私のことをほんとうに信じてくれたんだなと、あらためてよく分かった。自分はなんて幸せなんだと、あの夜思いました。

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2月2日「FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」初日の様子

48時間ジェイルにいたけれど、フォトグラファーになってから、初めてそれくらいの時間、誰ともしゃべらず、壁に向かっていました。真っ白ななかで、いろんなものがもっと分かりました。クリアになったのは、やっぱり私は写真に救われた、ということ。あらためてそう思いました。こんなことがあってすごく傷ついたし、世間では犯罪者みたいに見る人もいる。業界のなかでは半分笑いながら、「レスリー・キーってメンズヌードがいちばん美しくて、得意でシグネチャだから、これで捕まってしまうなら、レスリーはなにをすればいいんだ」という反応も多かった。私がヌードをやらなくなると、アメリカやヨーロッパはいっぱいいるけれど、アジアでメンズヌードをやる人はほとんどいないから。だから私はこのメンズヌードを6年、7年前に撮り始めて、自分はこういうコンセプトを身につけられるのが嬉しかった。いつか大きな会場で発表したいなと思いました。仁実さんと会って、会場は大きくないけれど、でもがんばろうと思った。1回目だから、がんばって8冊出しました。それで2回目また頼まれて、ほんとうに去年忙しくて、毎月写真展とイベントをやっていたので、2月2日は仁実さんと約束していたので、やらざるを得ないから、緊急で2冊出しました。

── 2回目は吉井さんから頼まれたのですか?

1回目も2回目も仁実さんから頼まれました。

── アート作品を自分で発表できる場所があるならやりたいと。

もちろん、ファッションとかコマーシャル・フォトだとなかなかないですから。川内倫子さんと森山大道さんはファッションはやらないし、ファッションやコマーシャルとアートは割り切っているから、アート・ギャラリーがキュレーションしてくれるのはすごい嬉しかった。

311の時と同じように、今こそやらないといけない!

── 仕事がいきなりキャンセルになったりしませんでしたか?

実は2月の6日か7日から14日までは旧正月で毎年国に帰るので、もともと仕事も入っていなかったんです。だから仕事がキャンセルされたのは、逮捕された日の撮影と、その後の2日間のふたつだけでした。ただし、いろんな企業に不安にさせたことは、うちのマネージャーは申し訳ないと感じています。

── 不安になっていた企業も分かってくれましたか?

この2週間でなんとか全部クリアしました。私のマネージャー鈴木さんがとても私のアート作品をアピールしてくれました。逮捕されて最初の3日、4日はパニックで、311みたいでした。311のときも私たちは今行くべきだ、と車を借りて、仙台行って、写真をバシバシ撮って人と会ったりしゃべったり映像を撮ったりしました。その時と同じように、「今こそやらないといけないよ!」と。このインタビューも受けるべき、チャンスだから、いま受けないといつ受けるのか、と思いました。クリエイターって発言したいけれど、今まで私は写真で発表しているから、今はこういうメッセージを発表するチャンスだから発表する。世界中の人が私のニュースを知りたいから、今言わないと、1ヵ月、2ヵ月経ったら誰も読まないですよ。私にとっては、オーディエンスがいちばん大事。オーディエンスがいないと、一生懸命撮った写真も映像も音楽で何も意味がない。オーディエンスがいて初めて作品が生きるんです。

── モデルの人たちがわいせつだ、ということになってしまいますからね。

会田誠さんも、あんなにいい展覧会をやっているのにバッシングされたり。だから、自分は日本人じゃないですけれど、一日でも早くこの件で、日本のクリエイターに可能性を広げて、海外のような写真の表現が日本でもできますよ、ということを与えてあげたいなと思います。BECAUSE I LIKE JAPANだから。ほんとうに日本が好きなんです。だって昔の『流行通信』やハナエモリさんの作った作品は素晴らしいのに、そういうものが売れなくなったら、やらなくなってしまう。みんな売れるものしか興味がないんですよ。だから、売れるものはクオリティが低いものが多いんです。ぜんぶじゃないですけれど、売れるために合わせてしまうから、ほんとうのいい作品がない。それがこれからの課題です。まさかこういう経験になってしまったから、これからしっかりこの経験を大事にしながら、この日本という自分にとっての夢の国をもっと夢の国にしたいなと思いました。

── 分かりました。

昨日(2月21日)、写真集を印刷した印刷会社の児玉さんとお父さんも逮捕されたんです。児玉武志さんは私と印刷の件でやりとりしていたけれど、70歳のお父さんの児玉社長まで捕まってしまった。彼らは普通の人ですよ。児玉さんは仁実さんもファッション業界もみんな良く知っている。「レスリーは有名な写真家ですから、断りきれなかった」なんて、メディアが大げさに報じているだけで、児玉さんは私が撮った作品は全てアートをずっと信じてるし、いつも私たちは一生懸命日本のアート界をもっとレベルアップするために頑張ってます。本当にみんな家族みたいに仲いいですから。

児玉さんは日本のアート業界、ファッション業界のために、カタログ、ポスター、写真集などの印刷をいっぱいやっていて、ここ2年間私のすべて出版した写真集も全部やっている。その中の一部がメンズヌードだというだけでしょう。彼とお父さんが一番かわいそう。私はとても悲しい。ずっと泣いていた、心が痛い。私は世界で一番有名な中国のアーティスト、アイ・ウェイウェイをすごく尊敬しています。そんな彼の自由を奪う中国のようだと思いました。

私も児玉さんとお父さんに対して、なにもできないから悔しい。祈るしかないから。実はこれだけSUPERシリーズを作った費用を、半分以上はまだ払っていないです。メンズヌードの写真展をやって儲かって車買って家買って、ってなっていればいいけれど、そんなことはありません。今までの全てSUPERシリーズの写真展も全部入場無料ですし。私はとにかくお金よりも、大勢の人が写真展を見に来る事が一番大事。何故ならば、私は写真展の会場で、きっと人生のプラスになるメッセージを皆に与えることができるから。

── コマーシャルで稼いだお金をアートに全部つぎ込んでいるのですね。

そう。それは私にとっては大事。それが私のライフワーク。悔いもなにもない。世界どこでも応援者が増えてきたし、そうした財産がいっぱいあります。だから今こういう事件になることによって、多少固いクライアントからの仕事は影響されたけれど、アートと音楽とファッション界の仕事はあまり影響ないと思います。自分らはいい写真を撮る自信を持っているから、そのうちまたもっといい内容の仕事が来ると思うし。なによりも私はずっと昔から世界のアート業界で活躍する可能性を作りたかったので、これがきっかけになったら嬉しいなと思った。この前のBlouin Artinfoの記事も何十ヵ国の人が読んでくれた。この事件が起こった最初の何日かはショックで、悲しかったけれど、今考えるともしかしたら必然かな、と思っています。

同性愛の人が社会の法律に合わせなきゃいけないと
苦しんでいるのを変えたい

今日(2月22日)は私の卒業したアシスタントのHAYATOが初めての写真展をやるんだけれど、彼のために私が50万円お金を出して写真集を300部作ったんです。それも児玉さんが逮捕されるギリギリの一昨日まで印刷していて、昨日届きました。今日はレセプションパーティーで、写真展のパネルも児玉さんご一家がやってくれて、ほんとうは会場に来てくれるはずだったんです。

私はメンズヌードの写真を撮って、世の中に愛と平和と希望を与えるけれど、警察にとっては「なぜ男の裸の写真が愛と平和を伝えられるの?」ってバカと思われるだけ。もう話しても理解できないから。ただ変態な奴としか思われないでしょう。2013年だし、日本はすごく進んでいる国だと思えたから、まさかこういうことまで、日本国内ではあまりに馬鹿馬鹿しいことが話題になるっていうことは、本当に理解ができないですね。特にアメリカとヨーロッパのメディアの記事を読んだら、日本はアートに対して理解のレベルがこんなに低いって、私はとてもショックです。

でもがっかりした部分も大きいけれど、落ち込んで日本が嫌、ということになっちゃいけないから、今は、こんな人たちも含めてもっといろんな日本人にお世話になっているということを感じています。ずっと社会貢献しているし、チャリティーが好きなので、社会に受けられるフォトグラファーになりたい。でも私がいちばん興味を持っているのは、お金がどうのこうのではなくて、マインドの社会貢献。日本人は素晴らしいものを持っている。ものづくりの丁寧さでは、中国と韓国は負けていると思う。あとはマインドをもっと広げれば、もっともっとすごい国になるでしょう。

2月13日に、フランスでもアメリカみたいに同性愛結婚がOKになったことがニュースになりましたよね。だからほんとうにアジアのなかでいちばん同性愛結婚ができる国は日本。日本が同性愛結婚ができたら、どれくらい日本の経済が良くなるでしょう。

──アジアから日本にみんな結婚式を挙げにくればいいですね。

それもあるし、例えばロスはアメリカ人男同士の結婚はいっぱいあるでしょう。経済的に男ふたりは強いから、2人とも働いていることが多いから、アートを買ったり、家を買ったり、投資ができたりできる。でも今日本では男と女しか家に入れない。もともと自由だったのに。それがあるから、多くの同性愛者が堂々と暮らせない。同性愛結婚ができたら、アジアは日本はもっと凄い国になります。同性愛の人がたくさんいるのにそれを隠している。社会の法律に合わせなきゃいけないと、苦しんでいる。彼らは何も罪もないのに。私はその考え方を変えたいから、こういうヌード写真展をやるんです。だから、たまたまあなたはここに生まれたかもしれないけれど、アジア人もヨーロッパ人もアメリカ人も、みんな同じだよ。男と女、男と男、女と女も、皆自由な恋愛で素敵な事よ。関係ないから。みんなひとりでも多くの人に、この気持ちを知ってもらいたい。

例えばイスラムの国ならば、同性愛は罪になるかもしれない。ならば、そこまで私は力はないかもしれないけれど、でも私がいるのはこの都会の国・日本だからね。情報も溢れているし、どこよりもAVの世界ではポルノグラフィが多い国なのに、私がアート・ギャラリーでメンズヌードのアート写真展を開催した事が問題になるなんて、どうしたのと思って。浅井さん、なんで?

── 今回の容疑はわいせつ図画の展示ではなく販売でしょう。販売は買った人がどこかに持っていって、見せる可能性があるからだと思います。展示は、ギャラリーという限られた場所だし今回は容疑にはなっていない。ただし、販売に関しては6,000円という高い写真集で、子供は買わないし、興味ない人は6,000円も払わない、しかも販売していたのはギャラリーの中なので僕は問題はないと思うのですけど。

これがもし500円でコンビニで買えて中身がオールヌードだったら、それは見たくない人も見られるから、そういった場所での販売は取り締まってもいいし、僕も反対です。表現の自由を100%担保した上でゾーニングすることは必要だと思ってます。ドイツではポルノの販売は街角のポルノショップで行われている。でも通信販売は禁じられている。買う人が子供かもしれないからです。でも今回のレスリーの件は、アート・ギャラリーだし、写真集も、ほしい人が買っている。もし、今回、ギャラリーで写真集を買いたい人から先にお金を払って住所を書いてもらい、後日宅急便で発送するという方法をとっていれば状況は違ったかもしれませんね。

会場では子供も入れていないし、そういうところは注意してます。

── であれば、どんな写真でも僕はOKであってほしい国であってほしいと思う。でも残念ながら日本は違う。

浅井さんがメイプルソープの写真集を出したのはいつですか?

── 1994年です。僕がメイプルソープの写真集を日本で作って販売したときは段ボールの箱に入れてシュリンクして、ビニ本のようにして普通の書店で販売しました。売っている書店の人に迷惑がかからないようにして、朝日新聞にも広告をうって、1999年に僕はいったん海外に持っていって持って帰ってきて税関で提出したら、これは輸入してはだめだと言った。それでやりとりがあって、国が決めた輸入禁止には反対です、と2000年に行政訴訟として国を訴えました。僕が原告で国が被告です。メイプルソープ写真集は日本で売っていた本だし、国会図書館にも入っていた。僕は日本のルールを変えたかったから、確信的に外国に持ち出し、再び国内に持ち込んだ。そこから裁判がはじまって、最初の地方裁判所では僕が勝ちました。国が上告して、高等裁判所ではわいせつだということで負けました。それを不服として、最高裁に上告しました。最終的には国が負けたのです。最高裁の判決が2008年ですので、訴訟を起こしてから8年、裁判を起こす事を前提に出版してから14年かかりました。

この数百ページの写真集のうち、メイルヌードが何ページでパーセンテージが少ないとか、モノクロの写真だから、もちろんロバート・メイプルソープという写真家の写真だ、という理由で、わいせつでなくアートだということになりました。わいせつを禁じる法律を変えることはできないので、裁判で勝つためにはわいせつかアートかで闘うしかありません。だからレスリーがアートと言い切ることは正しいし、アートを展示する場所でやっていたから、公然ではなく限られた場所での展示、限られた場所での販売は、どんなに男性器が勃起している写真だろうと自由であるべきだと思います。

現状の日本はそういうことをやっている。いつ変わるんでしょうか。

── 僕は2008年に最高裁の判決が出て、日本の表現の自由は少しは変わったと思ったんだけれど、またこういうことが起きたのが残念です。

5年前ですか。

── その時は新聞のトップにも出ました。せっかく僕が、ここまではOKという裁判の判例を進歩させたので、2013年にレスリーの写真集がだめというのは残念です。現在起訴猶予ですが、このまま起訴だったら、レスリーや吉井さんは裁判で無実を主張するでしょう。検事さんたちはメイプルソープの写真集の判例は知っているので最高裁までこの裁判を維持できるか考えるでしょう。僕は、起訴しても最高裁迄いけば検察が負ける可能性は高いと思うので、不起訴にしてほしいと強く思います。

僕は“未来の表現の自由”のために裁判をやり判例を作ったのですから。

ありがとう。私の作品を愛してくれる世界中の人々がたくさんいるのですから、本当に幸せ!未来の表現の自由はこれから、日本のアートと写真業界の課題になるでしょう。

今回の事件で、私が良く分かった事、現在は日本はまだアートについての理解が、思ったより進歩していないね。でもきっと10年後、20年後、いろいろ変わって来ることを信じたいですね。
日本でなかなかこの件について語ると話せる人がいないから、今日は浅井さんと会えて本当に嬉しいです。これからも是非一緒にこの国で、たくさんの素晴らしいアート作品を作って、輝く日本の未来のために、頑張りましょう!とにかく、私は夢をあきらめない、私はアートも捨てられない、私は死ぬまで、自分の作品を通して、世界中の人々に愛と希望と勇気を与え続けます!

(2013年2月22日、渋谷アップリンクにて インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)



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2011年の「FOREVER YOUNG」写真展で発売された8冊のSUPER NUDEシリーズ

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第1回目の「FOREVER YOUNG」写真展、ギャラリーhiromiyoshii roppongiにて。 (2011年11月25日-2012年1月31日)

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2010年4月23日より2週間表参道ヒルズで開催された写真展「SUPER TOKYO」、来場50,000人。写真集『SUPER TOKYO』は“愛と平和と世代”をテーマに、東京で出会った1,000人のヌードを撮り下ろすというプロジェクト。収益の一部は国連人口基金「お母さんの命を守るキャンペーン(UNFPA)」に寄付された。

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世界32カ国の女性セレブリティ200人のポートレイトを収録したチャリティ写真集『TIFFANY supports "LOVE & HOPE" by Leslie Kee』。表紙を飾るのは浜崎あゆみ。表参道ヒルズにて写真展開催。売上げの全額が東日本大震災の義援金として寄付された。

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レスリー・キーが撮った世界の歌姫 レディー・ガガ、ジェニファー・ロペス、クリスティーナ・アギレラ、ビヨンセ、ヒラリー・ダフ、アヴリル・ラヴィーン

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アジア人のヌードをテーマとしたコラボレーション。上から『SUPER A/X HOPE』、浜崎あゆみのPV「BRILLANTE」、月刊シリーズの『月刊 MISS UNIVERSE』、雑誌『anan』より「美しいオトコのカラダとは」特集

▼「SUPER LADY GAGA by LESLIE KEE」(2012年)

▼「SUPER YOHJI YAMAMOTO」デザイナー山本耀司とコラボのポップアップストアと写真展 (2012年9月8日-25日)

▼「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」(2012年)




【関連記事】
[DICE'S EYE]メイプルソープ写真集裁判、最高裁猥褻の基準見直し!映画からボカシがなくなる!?(2008-02-19)
http://www.webdice.jp/dice/detail/27/




レスリー・キー プロフィール

1971年シンガポール生まれ。1994年来日。日本語を学びつつポートフォリオの作成を始める。1997年東京ビジュアルアーツ写真学校卒業。1998年独立。ファッションを中心に香港、台湾、日本とアジア各地で活動。2001年より5年間ニューヨークにベースを移し、活動の場を広げる。2006年東京に戻りファッション・フォトグラファーとアート写真家として活動。写真集『SUPER STARS』を発売。表参道ヒルズにて写真展開催。300人ものアジアのトップアーティストの協力を得て、津波の被害者に捧げられた。『VOGUE』『25ans』『anan』『ViVi』等多数の日本雑誌社の仕事を行い、またアパレルやビューティーを中心に幅広く企業広告「SHISEIDO」「ユニクロ」「NTT」「SOFT BANK」「JR」「VISA」宝塚の公演ポスターなどを手がけている。東日本大震災チャリティー写真集「Tiffany supports LOVE & HOPE by LESLIE KEE」がAPAアワード2012にて経済産業大臣賞を受賞。2012年は西武渋谷店にて写真展「SUPER POWER PEOPLE」、「ANTEPRIMA supports THE COLORS OF HOPE 」、デザイナー山本耀司とコラボ「SUPER YOHJI YAMAMOTO」、スーパーモデル冨永愛15周年写真展「SUPER AI TOMINAGA」、ユニクロ x kitsonコラボ「SUPER MAMA」をユニクロ銀座店にて開催など。また5万人来場した松任谷由実の40周年記念の史上最大の写真展『YUMING FOREVER by LESLIE KEE』を表参道ヒルズにて37日間開催。
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