で、パティ・トークの二日目で代官山の蔦屋に行った時のことだけど、
代官山に行くこと自体がものすごく久しぶりで
(その前にちょっとばかり通ってたのって、代官山アドレスができた後くらい?
と言えばすでに10年以上前なんじゃ?)、
ツタヤ自体がどこにあるのかわからず、
まあ行けばなんとなくわかるだろうとは思っていたものの、
駅前で早くも人に聞いて、
「そっちを歩いていく人の後をついていけば着くから」
と言われてもなお心細げな顔でもしていたのか、
「不安だったら、そこで曲がって大通り沿いに行けば確実だから」
とまで言われてしまって、念のためそのとおりにしたんだが、
見えてきた「蔦屋書店」という青いネオン文字におお、と心を打たれ(元々、ネオン好き)、
足を踏み入れた敷地は目をみはるような、というか、
落ち着いた雰囲気を醸し出しながらもゴージャスな異空間で、
なに、ここ……と半ば圧倒されつつ、
それでどこへ行けばいいんだったっけ? としばらく敷地内をうろうろしていたが、
やがて落ち合った担当編集さんも、
「なんか場違いな(ところに来てしまったような)……」
という言葉で、
昔はこういうキレイで洗練されたところが私は大好きだったんだけど、
今はさすがに格差社会のせいっていうのか、
自分がその貧困層のほうに属しているせいなのか、
せっかくゆとりのある造りになっていても、とても落ち着いた気持ちではいられない。
どうしても、この美しいうわべの裏にあるものを考えてしまうのだった。
美しくて悪いはず、あるわけないのにね。
しかし、パティも、
「ここ、すっごいクールね!」
とトークの始まりに言っていたから、
誰だってそれなりの違和感は感じるのだろう。
それがポジティヴになるか、ネガティヴなになるかは、
その人の経済的ステイタス(から作られる感性)で決まってしまう、ということなのだろうか。
けど調べてみると、
ここはそもそもリッチなシニア層を狙って造られた商業施設だそうで、
それがおしゃれな若者にも受けてしまったらしく、
それなら、リッチじゃない私がどこか居心地の悪い思いをするのは当然かも知れない。
気に入って通えばなじんでしまうのだろうが、
今の私にはそんなことしてる時間もお金もなさそうだし。
でも確かに書籍の品ぞろえは抜群によさそうだった。
コレクションを飾ってるのかと思うほどバックナンバーがそろっている雑誌もあった。
そうは言ってもその豊穣さがかえって目移りを引き起こし、
こんな豊穣過ぎる空間に、たとえ成熟した大人といえども、落ち着いた気持ちでいられるものだろうか、と思わなかったわけではない。
まあ、別にそれはここのせいでもなんでもなくって、
今の世の中全体に言えることなのだけど。
ただひとつだけほんとによかったのは、あの最初に見えてきた漢字のネオン。
あれだけが、私にとってはほんとうの落ち着きと渋さを感じさせるものだった。
ターゲット層を知って漢字にしたのもうなずけるけど、
そのセンス、間違ってはいない。
そこらのツタヤとは違うツタヤ。
代官山の蔦屋は、決してツタヤって書いちゃいけませんね
(以後、そのようにいたしましょう)。