2011-03-13

『トゥルー・グリット』クロスレビュー: コーエン兄弟の勇気 このエントリーを含むはてなブックマーク 

ジェフ・ブリッジズとコーエン兄弟といえば、リボウスキ。わたしにとってコーエンといえば、「ノー・カントリー」でもなく、「ファーゴ」でもなく、はたまた「赤ちゃん泥棒」でもなく、「ビッグ・リボウスキ」なのだ。本年のオスカー授賞式でもジェフがプレゼンターのサンドラ・ブロックにデュードと呼ばれてニヤニヤしてたのをわたしは見逃さなかった。昨年、「クレイジー・ハート」でオスカーを獲っているにもかかわらずだ。ことほどさように強い印象を残したタッグが再び実現する日が来るとは、まったく幸せな気分にしてくれる。

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期待度スカイツリー状態で臨んだ私を待っていたのは、しかし意外な映画だった。

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そもそも原作の出版は1968年。1969年にジョン・ウェイン主演「勇気ある追跡」として映画化された。はて、1968年と言えばサマーオブラブなアメリカだ。翌年にはあのウッドストックが開催されている。セックス、ドラッグ、ロックンロールな風潮が全米の若者たちのあいだに蔓延して、猛烈な勢いでさまざまな出会いと別れ、破壊と創造を生み出していたはずだ。だから第42回(1970年)アカデミー賞で主演男優賞にジョン・ウェイン、作品賞に「真夜中のカウボーイ」という、正直田舎者がメインになっている作品が選ばれたのはオスカー審査員の保守的傾向を裏付けるとみることもできる。じつは「イージー・ライダー」のジャック・ニコルソンも助演男優賞にノミネートされていたんだけどね。

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トゥルー・グリット1969バージョンには、アメリカの保守的な意見を代弁するオスカー選考委員たちがベストに選んだ主人公が出ていたということは心に留めておいていい。アメリカの保守層、それがどんなものか、日本にしか住んだことのない私には想像の域を出ないが、音楽でいえばウィリー・ネルソンとか、ジョニー・キャッシュといった北米エリア、白人カルチャーの真髄みたいな部分と相通ずる人たちなのだろうと思う。どこのものでもない皮膚感覚としての自国文化。わが国でいえば北島、康介ではなく、三郎の方。誤解を恐れずにいえば忠臣蔵だ。

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コーエン兄弟はそんなアメリカ保守層の心の原風景とも呼べる作品を再び映像化した。これはなんちゃってコーエン・フォロワーとしても、大きな変化を感じる。トゥルー・グリットというだけで、見る前から全部分かってるアメリカ人はきっと多かったに違いない。人々はそれぞれのレファレンスを持っていて、おお、ここはこう来たか、お、なるほどー上手いねーとか言いながら見ることができるのだ。自分たちの作り出した奇想天外なキャラを縦横無尽に動かしてきたコーエン兄弟の新境地といえば聞こえはいいが、「マダムと泥棒」とは奥行きが違う。よく引き受けたと思う、自信もあったのだろう。

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こんなことを本編を見終わってから調べたり、考えたりした。なぜなら、予備知識なしに観たわたしは登場人物の誰にもシンパシーを感じることができないまま、茫然とエンドロールを眺めていたから。

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ちょっと待ってくれ、俺のデュードはどこへ行っちまったんだ?馬があっという間に消耗していくCGが一番印象的なシーンだったなんてあんまりだよ。40歳のおばさんを若くしたような、伸び代のない子どもは痛々しいぞ。テキサス・レンジャーなのに弱すぎ。どうしてルースターはあんなに一所懸命マティを抱えて走れるのか訳分からん。・・・だれか教えてほしい。私にはナゾが多すぎる映画、もう一回見てみよっと。

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nozacs

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