2012-10-14

『駄作の中にだけ俺がいる』クロスレビュー:親戚になった気持ちで会田誠のことを思う このエントリーを含むはてなブックマーク 

ドキュメンタリーもの、とくに伝説的なアーティストやトップ・アスリートを取り上げた作品には、ある種、近づき難さを感じることが多い。ザ・バンドのラスト・ワルツとか、同じ監督のノー・ディレクション・ホーム、最近だと、久保田真琴のスケッチ・オブ・ミャークにしても、あ、こりゃスゲーな、と感慨に圧倒されることはあっても、オレとは関係ない未知の世界、取り上げられた対象と私との距離感が縮まることがないままそれは終わることが多い。美術館で名画鑑賞している感じとでも言おうか、シンパシーを感じる度合いが高まるということもない。

だからダサオレが私にとって意外だったのは、漫然と進行して、安っぽい祝祭感とともに終るこの作品を見終わって感じた、曰く言いがたいモヤモヤ感が、見た翌日になって、まるで親しい友人や家族のことを思い出すように、胸キュン感に変容していたことだ。

おい、こりゃどういうことなんだ。
寅次郎のことや、奥さんのことが気になるじゃないか。

この、自分でも想定外の変化が起きる前は、彼のデビューだったらしいレントゲン藝術研究所のイベントに行ってた自慢話でもおっぴろげようと思っていた。つか、そこで村上隆もいたはずだから、ふたりの差についてでも書こうと。

でも、もはやそんなことはどうでもいい。

青山真治の「東京公園」を見たときに感じた、ほっこりした気持ち。ドキュメンタリーだし、対象が会田誠だから、そこまでゴージャスなもんじゃないけど(失礼)、通ずるものを感じた。これは私が会田誠と年齢的に近いせいもあるかもしれないから、実際に劇場で見てもらうしかない。

会場でもらった資料に監督の言葉が載っていた。
「手練手管で誘導するのではなく、観客の想像力に問いかける作りに主眼を置いた」
これは成功していると思う。見た人それぞれのダサオレ、私だけのダサオレ。

ただ、個人的に最後に3月11日の地震についてとってつけたようなテロップは不要かと。会田自身からのリクエストで犠牲者に対する哀悼の意を捧げるとかならともかく、預言者めいた役割を会田に負わせるのは、全体の流れとそぐわない印象を受けた。

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nozacs

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