ディロバン・キコ 映画『ラジオ・コバニ』より
5月12日(土)より公開となる映画『ラジオ・コバニ』は、過激派組織「イスラム国」(IS)との戦闘により瓦礫と化したシリア北部のクルド人街コバニで、大学生時代にラジオ局を立ち上げた女性、ディロバン・キコさんのドキュメンタリーです。映画は、戦闘が続く2014年からコバニに復興の光が差し込み始めるまでの三年間を追っています。
webDICEでは、ラベー・ドスキー監督のインタビューを掲載します。自身もクルド人の監督は、地雷や戦車を越えコバニに赴き戦地での撮影を敢行。本作を、戦死したクルド人兵士の姉に捧げています。
ディロバンに出会った初日に彼女の声を録音しました。まさに一目惚れです。
ラベー・ドスキー監督
──あなたはイラク出身で、現在はオランダにお住まいだそうですね。ご家族でオランダに移住されたのですか?
私はイラクの北部、ドホークの出身です。1996年にオランダへ移住しました。もう成人していたので、家族と別れて一人で行きました。特にオランダを選んだわけではなく、クルド人が多い国を希望したのです。社会福祉について学び、2年働いてから、アムステルダムの映画学校に入りました。
──あなたの亡くなったお姉さんは、クルディスタン労働党(PKK)の女性部隊にいて、映画に登場したYPJ司令官のメリヤムと仲間だったそうですね?
私の姉は1988年に女性部隊に入り、司令官にまでなりましたが、2001年にトルコとの戦いで殉教しました。私はコバニでメリヤムと出会ったときに、彼女が姉と同じ部隊にいたことを知りました。二人は何年も山の中で一緒に敵と戦ったのです。
YPJ司令官のメリヤム 映画『ラジオ・コバニ』より
──ディロバン・キコのラジオ番組「おはよう コバニ」をどのようにして知ったのか、そして彼女を主人公に映画を撮るに至った経緯を教えてください。
当時、私たちは映画を撮るためにトルコからシリアのコバニに向かっていました。ご存じかもしれませんが、トルコからコバニに入るには違法なルートで行くしかありません。トルコ政府があらゆる手を尽くしてクルド人地域との国境を封鎖しているからです。その一方で、トルコ政府はイスラム国(IS)の戦士たちをサポートしています。私とクルーが有刺鉄線を突破しようと国境付近で待っていた時、タクシーの運転手がラジオを聴いていました。私はそのラジオで女性DJの声を耳にしたのです。彼女は「戦士たちのために」という曲をかけて戦士たちを励まそうとしていました。ガイドと運転手にラジオ局について尋ねたところ、声の主はディロバン・キコという人だと分かりました。その日の夜、私たちはトルコの地雷や戦車を突破して国境を越えました。そして翌日、ディロバンを探しに行ったのです。出会った初日に彼女の声を録音しました。まさに一目惚れです。パワフルな声を耳にし、美しくて勇敢で知的な女性を目の前にして、ドキュメンタリーの被写体に望まれる魅力を全て備えた人だと確信しました。そしてクルーに“この人だ!”と言ったのです。
ほとんどの人々が「なぜあの死体の映像を使ったのか」といいます。
──本作は、ディロバンの「まだ生まれていない子供への手紙」で構成されています。このアイデアはどのようにして生まれたのでしょうか? また、手紙を依頼されたディロバンの反応はいかがでしたか?
コバニには9回行き、その時々の街の様子を撮影しました。そして戻ってくるたびに、物語として完全ではないと感じたのです。何かが足りない。普遍的で、次の世代への架け橋になるようなメタファーが必要だ。そう考えて、「まだ生まれていない子供への手紙」というアイデアを思いついたのです。ディロバンに話すと最初は笑われました。“子供って誰のこと?”と。私は“名前はなくていい、とにかくひとりの子供だ”と答えました。つまり、私がお願いしたのは、ディロバンの子供への手紙ということではなく、これから生まれてくる、そしてコバニで何が起きたか知ろうとする全ての子供たちに宛てた手紙ということでした。私たちが最後にコバニへ行った時、ディロバンは書き始めました。手紙という形で自分の感情を言葉にし、経験を綴ってくれたのです。彼女が手紙を朗読し、私がクルーのために通訳しました。私たちは泣いてしまったのですが、ディロバンはなぜ泣くのかと尋ねるのです。まるで泣くことを忘れてしまった子供のようでした。彼女はその場の雰囲気を変えようと冗談を言ったりもしました。
ディロバン・キコ 映画『ラジオ・コバニ』より
──2014〜2016年に撮影された本作ですが、戦闘中の危険な現場もあったと思います。何人のスタッフでどのようにして撮影されたのでしょうか?
最初の2回が最も大変でしたが、幸い私は1人でした。当時、街の8割がISの支配下にあり、クルーは連れていかなかったのです。現地の状況がよく分からなかったし、私には戦地での撮影経験は全くありませんでしたからね。小さなバックパックにカメラとその他の機材だけを詰め、現地に入りました。1回目は市街地での戦闘をたくさん撮りました。街には日本人ジャーナリストたちもいました。1カ月後に再び現地に赴きましたが、クルド人民防衛隊(YPG)の手引きで国境を越えようとして、トルコの兵士たちに捕まってしまいました。5人のジャーナリストが一緒でしたが、私とスウェーデン人のジャーナリストが捕まったのです。トルコの兵士たちは私がクルド人だと気づくと乱暴に扱いました。しかし、私を殴りつける一方で、スウェーデン人にはトルコのお茶を振る舞っていました。クルーと一緒に行ったのは3回だけ、街の大部分が解放されてからでした。メンバーは3人。撮影のニーナ・ボドゥー、音声のタコ・ドライフォウト、そして私です。冷戦が続いているかのような環境の中で、私の唯一の問題は自分の恐怖心でした。監督としての責任感から、クルーのことがとても心配でした。誰かがISに撃たれたり捕まったりしたら、どうしよう。そう考えると悪夢のようで、夜がひたすら長く感じられました。でも幸い、身体的には無事に帰ってきたし、精神的な傷からも立ち直りました。
ディロバン・キコ 映画『ラジオ・コバニ』より
──ディロバンや出演した方たちをはじめ、コバニの住人は、この映画を観る機会はありましたか?
この映画はテレビで放映され、200万人ほどのロジャバ(シリア北部のクルド人居住地域)の人々が視聴しました。ラジオでは声が流れるだけでしたが、テレビ放映により、みんながディロバンの顔を知ったのです。今では街を歩くと気づかれ、子供たちや若者たちがディロバンと記念撮影をしたがります。コバニの人たちの多くが、ラジオの向こうから自分たちを励ましてくれた人がどういう顔をしているか、映画で知ったわけです。みんながディロバンを、そして彼女の奮闘をとても誇りに思っています。
──映画完成によってもたらされたコバニの変化があれば教えてください。
この作品によってコバニの物語が世界の人々と共有されたことを、観た人たちは高く評価しています。私は、映画に出てきた人たちと話をしました。例えばジャーナリストのムスタファ・バリ、ラジオ局スタッフのビタール・アリ、ディロバンの親友シハン・ハサンといった人たちとです。彼らは映画に満足していたようでした。ただ、残念ながら映画がコバニの状況を変えたとは言えません。この作品の影響で支援組織がコバニに向かう可能性もあると希望を持っていましたが、私が知る限り、トルコが完全に国境を封鎖しています。ロジャバとの貿易はどの国にも許されていません。トルコはクルド人を非常に恐れています。ロジャバのクルド人が自由を手にしたら、トルコにいる2,000万人のクルド人も自由を要求するであろうからです。トルコが恐れているのは主にその点です。
──本作は、世界の様々な映画祭で上映されていますが、観客の反応はどのようなものでしたか?
概ね好意的な反応です。誰もが心を動かされ、コバニで起きたことが理不尽だと感じるようです。Q&Aがあると、ほとんどの人々が死体について尋ねます。なぜあの映像を使ったのか、もっと短くできなかったのか、と。私の目標は、コバニの人々の経験を、映画を見た人に少しでも感じてもらうことでした。ああいう死体を5分と見ていられないのなら、死体に囲まれて何カ月も生きなくてはならなかった子供たちの気持ちは感じ取れません。その経験が子供たちの人生にどんな影響を与えるのでしょうか。死体や戦闘の映像を使わずに、コバニの物語は完成できるのでしょうか。彼らの物語の一部を削除する権利など私にあるのでしょうか。私はドキュメンタリーの映画監督として、彼らの物語を間近から観察したのです。あらゆる点で、限界まで試みました。
映画『ラジオ・コバニ』より
私の夢はコバニに映画館と映画学校をつくること。
映画館と映画学校をつくるために再びコバニを訪れたドスキー監督とディロバン(2018年4月19日撮影)
──監督はコバニに映画館をつくりたいと考えているそうですね。映画館はコバニの人々に何をもたらすと思いますか? 実現にむけてのプランを教えてください。
コバニでは、ほとんど全てが戦争によって破壊されました。そこで、私は2016年のアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭で、街を支えるために何かをしたいと訴えました。アートは人生とその再建への糸口だと思います。私は現場に出かけていって彼らの物語を世界に伝えましたが、コバニの人々が自分たちの手で自らの物語を語ることも充分にできると考えています。例えば映画だって自分たちで撮れるはずです。私はコバニにスクリーンが3つある映画館と、映画学校を作り、人々の力になりたいと思っています。既に「Stichting Adar(三月基金)」という基金を設立しました。コバニと私の夢をかなえるために力を貸してほしいと世界に呼びかけていくつもりです。1月にはコバニに戻り、実現に向けた調査を行う予定です。私の見積もりでは、プロジェクト全体に必要な資金は約200万ユーロ。アートやカルチャーを愛する日本の人々も、シネマ・コバニの設立に力を貸してくれるのではないでしょうか。
Stichting Adar(三月基金)
http://www.stichtingadar.nl/en/
『ラジオ・コバニ』海外公式facebookページ
http://www.facebook.com/radiokobanidefilm/
戦争とは死であり、トラウマであり、悪夢であり、恐怖であり、その他さまざまなもの。武器を作るのをやめろと私は言いたい。
──最近のディロバン・キコの近況について、ご存じでしたなら教えてください。
ディロバンとは定期的に連絡を取っています。ディロバンは元気で、夫と一緒に新しい人生を切り開こうとしています。友達とも仲がよく、彼らにとても助けられています。ラジオの仕事は辞め、前から夢見ていた教師の職を得ました。子供たちに教えるのが本当に楽しいようです。また、自分の子供も持ちたいと願っているようです。最後に会った時は、たくさん笑いました。ディロバンと『ラジオ・コバニ』がノルウェーのベルゲン国際映画祭で人権に関する賞を受賞し、その話をしたのです。ディロバンはとても喜んでいました。
コバニで教壇に立つディロバン(2018年4月19日ドスキー監督撮影)
──最後に、映画の中で、ディロバンが答えに詰まった質問をします。監督にとって「戦争」とは何でしょうか?
戦争とは死であり、トラウマであり、悪夢であり、恐怖であり、その他さまざまなものです。武器を作るのをやめろと私は言いたい。私は戦争の中で生まれ、育ち、戦争のせいで家族と共に何度か外国に逃げなくてはなりませんでした。そのたびに全てを失い、やり直しを余儀なくされたのです。私の祖母は幸せそうに“物はなくなっても、生きてるじゃないの”と言ったものです。コバニでも全く同じ言葉を耳にしました。何年も続いたこういう時代のせいで、失われたものなどなかったかのように。私は、目のあたりにした現実より、そうした言葉に胸が痛みました。これがコバニで最後の戦争にはならないだろうと分かっているからです。なぜ中東には平和が訪れないのでしょうか。なぜこんなにも多くの戦争が起きるのでしょう。そうした問いに、納得のいく答えができる人がいるでしょうか。私にはできません。戦争に勝者はいないのです。武器の代わりに楽器を作り、子供たちに音楽を作らせるべきです。
ラベー・ドスキー(Reber Dosky)
1975年生まれ。イラク北部のクルディスタン自治区ドホーク県出身。1998年よりオランダ在住。オランダ映画アカデミーで映画作りを学ぶ。卒業制作として撮った2013年の『The Call』では、戦争と移住が父と息子の関係に与えた影響について描き、国際映画祭でいくつかの賞を受賞した。短編映画『スナイパー・オブ・コバニ』(2015年)は世界的にブレイク、2016年の札幌短編国際映画祭の最優秀賞ドキュメンタリー賞をはじめ数々の賞を受賞した。
映画『ラジオ・コバニ』ポスター
映画『ラジオ・コバニ』
2018年5月12日(土)より、アップリンク渋谷、
ポレポレ東中野ほか全国順次公開
監督・脚本:ラベー・ドスキー
配給:アップリンク
字幕翻訳:額賀深雪
字幕監修:ワッカス・チョーラク
2016年/オランダ/69分/クルド語/2.39:1/カラー/ステレオ/DCP