…と、ゴダールは言うのだけど、人は物語を必要とするのに物語は人を必要としない、と言うことができるだろうか。
小説教室でも芝居のWSでも繰り返し言う羽目になるのは「描写」で、まあWSでは「描写」という言葉は使わないけど言ってることは同じで、たとえば小説教室に提出される作品に共通してコメントがつくのは、「ある朝、男が目覚めると、蟲になっていた。」と書いてしまうのは要約文ですよ、「男は未だ重たい瞼を引きはがすように持ち上げて、霞む視界に目を凝らした。」などと書くことで「目覚めたんだな」と、「自分の身体が思うように動かない。助けを求めたいが声が出せない。微かに聴こえるのは、しし…という何かを摺り合わせるような音だけで、身体全体が固い甲羅に覆われたようだった。」などと書いて「蟲になったんだな」と、読み手に思わせるのが小説ですよ、という類い。
これは勿論私が散々にあらゆる編集氏から教えてもらってきたことなのだけど、微に入り細に入りと言うが、要約すれば一行で済むことを原稿用紙に何百枚も書くキチガイじみた作業が小説を書く作業の本質なんじゃないかと実感する。
つまり「おっぱいぽろん」と書くと、返される原稿に入っている朱書きは「どんなおっぱいですか?」「どんなふうに【ぽろん】なのでしょうか?」であって、やっぱり「おっぱいぽろん」じゃ小説にならんのだ。
役者の勉強も同じで、自分が演じる人物像を「要約」してしまう演技は物語を生み出さない。
台本に「と、笑う。」という「ト書き」があれば役者はそれをやらなきゃいかんのだけど、そこんところを勘違いしてうっかり、ト書きに書かれていることを完璧にこなせる技術が役者の仕事だと思っている人もいて、そうじゃないんだよ、「なんで笑うか、どう笑うか、台本に書いてないことをやるのが役者の仕事なんだよ」と言い続けて何十年になるやら。
WSでは「描写」ではなく「解釈」と言うし、解釈と描写はもちろん違う言葉なのだけど。
人は物語る生き物だなあと思う。言葉が存在しない時代から、人は何かを物語るためにあれこれの知恵を使っていたじゃあないか。言い伝え、象形文字、舞踏、音楽。人が物語ることは本能なんだろう。
死ぬ間際にも何かを語ろうとする遺言なんてのもあるんだから、最後の最後まで失われない本能、言わば「悪あがきの本能」なのかもしれない。
佇まい、という言葉がある。
その人がそこにいる、その雰囲気のことをひと括りにした言い方だけど、「佇まい」という言葉自体は、状態を説明していない。つまり、誰かの佇まいに自分が惹かれたとして、そのことを書くときに「その佇まいに心惹かれた」と書いてしまっては小説にならない。
小説で「佇まい」という言葉を使いたいときにはせめて「どんな人が、どんなふうにそこにいるのか」を書いた上で「その佇まいに〜」と書く、それが小説家の仕事だし、そこが物語になっていく。
んで、役者がやるべき仕事は「どんな人が、どんなふうにそこにいるのか」をやってみせることだ。だから台本には「誰それが立っている。誰かれがそれを見ている。」としか書かれていない。書かれた通りに「立っている」だけ、「見ている」だけでは物語にならない。
役者がすごく得してるのは、人を演じる以上、最低限に必要なものは必ず揃ってるという点で、これが椅子の役だったら、椅子の佇まいを演じるのはかなり難しい。
椅子は目を閉じているのか開いているのか、息をしているのかしていないのか、なんてことを考えなければならないのだけど、人を演じる以上、まあ目を閉じて立ってるってあんまないしな、息はしてるだろ普通と、最低限のことの目安がつく。
ばかばかしいことのようだけど、演劇の人ってずいぶんと本気でこういうことを考えたりしているんじゃないかしら。「ばーか」と思うけども。
WSでは、人は人なんだからあんたが人だったらそのまんまでいいじゃん、てな方法論をやってるのだけど、そのまんま立てって言われると、普段自分が人として使ってる機能が停止した状態に陥ってしまう人が多い。
それは、舞台の上の役者は何かをやらなきゃいけないという先入観のせいじゃないかと思う。
んで、なんかやっちゃうんだな、そういう人は。やらんでいいことを色々と、「そこにただ立ってろ」と言われているのに腕時計(もしてないのに)を見(るふりをし)て待ち合わせでそこに立ってる、なんて勝手な設定を作っちゃう。そういうことを芝居における台本の「解釈」ですと教える人もいるからしょうがないんだけど、うちのWSではそういうことをすると「この設定乞食が!」と恫喝されます。
そういうことをやっても「どんな人がどんなふうに」が描けない。小説に「腕時計を見ている人の佇まい」と書いたら「だからその【腕時計を見ている人】はどんな人なんですかってところを描かなきゃ!」と編集氏が苛立った声で電話してくるに違いない。
設定増やしただけで解釈になってない。どんな人かがより一層わからなくなる。どんな人かよくわからないのにあれこれのことをやって見せられて設定ばっかり見えてくるのは、あらすじを原稿用紙二百枚読まされるのと同じで、観る側には猛烈な苦痛なのだけど、やってる人はちっとも気がつかなかったりする。
じゃあこの人はどんな人ですか、と問われたとき、演じる役者は自分に与えられた役なんだから「私です」と答えればいいのに、「普通に働いているOLで、家は世田谷の方で両親と暮らしていて、今は仕事帰りでちょっと疲れていて、それでもモヤイ像の前で恋人を待ってるところです」とか答える阿呆地獄。
「私に与えられた役なので、私がやるときのこの役は私です」と答えられる人などいない。
小説書く人も物語の人物をどんな人と問われて「私です」とは答えられないのだけど、それでも本当のところ、描かれている人物はすべて「私」なのだ。いや正しくは「描かれていることはすべて私」か。
まったく客観性をもって誰かのことを描写しきったつもりでも、「ははあ、この作家はこういう人のことをこういうふうに見ているのか」と、「私の目」が曝される。
芝居の感覚があるからか、作家の新刊インタビューとかで「この人物はこれこれこういう人で〜」みたいな、自分が作った絵空事の人物像についてまるで現実での知り合いか何かのように熱心に語っているのを見ると、すげーな、キチガイだなと感心してしまう。そういう人は「書く」という自意識をどこに置いているのだろう。芝居でいうイタコ体質みたいなのが、小説を書く人にもあるんだろうけれど。
編集者にもそういう読み方をする人がたまにいて、自分が作った絵空事の人物の思うことや行動について、知人のことのように語られると、なんだか後ろ暗い気持ちになって、ちょっとびびってしまうのだ。
人物像のために、役の解釈のために、細かに架空のプロフィール(設定)を作ることも必要になるけれど、絵空事で作った人物は、どうやったって生身の人間の複雑さには敵わない。思考や思想や精神など、生身の肉体なしでは1メートル先に歩くことすらできないんだから。
それらを歩かせ、語らせ、生かすには、生身の肉体を容れものにするしかない。それが「私」だ。
といって「私」を空っぽにしてしまったら、何も物語れない。絵空事の人物には「生きてきた時間」がないから。
芝居に対する私の考え方は截拳道というブルース・リーの武術論を基にしているのだけど、私の容れものには水のようにたぷたぷと「私」を満たして、絵空事の設定など顆粒にして溶かしてしまえばいいじゃないかと思う。
だって小説家が物語の主人公そのものに成り代わってしまったら、構成とか校正とかができないじゃん。
役者が芝居の人物に成り代わってしまったら、キッカケも段取りもやれないじゃん。
小説が書かれた物語である以上、芝居が作られた空間である以上、んなこたあ不可能だ。
結局のところ、行き着くのは「書く私」や「演じる私」でしかない。
屁理屈ではあるけれど、小説に書かれている登場人物の言動は、どんだけその人物になりきったつもりで書いていたって、結局のところ、「作家が人物になりきったつもりで書いた言動の描写」でしかない。
つまり、もし自分がこの人物のような物の考え方をするとして、こんな出来事があった場合、自分ならどうするだろうという、どこまでも自分基準の想像だ。
芝居の場合はもう少し幅があって、空間や時間や相手の存在や与えられた台詞から、自分基準が自然とぶれることがあって、そうやって、物語という絵空事の人生にすっぽりハマったときには、普段の自分では想像できるはずのない言動がぽっと出たりするし、小説を書く人も、そうやって書く自意識を無くす瞬間があったりするのかもしれないけど、であれば役者のイタコ体質は、小説家の場合、自動書記体質ってことなのか。
截拳道では「武術家は水のようであれ」と言う。武術のスタイルを容れものにたとえ、どんなスタイルで闘うときでも、水のようなたおやかな精神があればよいのだと、言う。
それを役者や小説家に置き換えたとき、何を何と捉えるかは、人体の細胞の仕組みと壮大な宇宙の仕組みが永遠の入れ子構造になっているのと同じようなものだと思うけど。
物語が一番大きな容れもので、その中で生きる人物は顆粒状で「私」と溶け合っている。
てのが、小説にも芝居にも共通しているんだと思う。
私は泳げないし、とんとんとん…と包丁の音が軽やかな千切りをすることができない。
だからきっと、私が舞台上で演じる人物も、「泳げなさそう」「千切りできなさそう」なんだろうと思うし、それでいいと思う。遠泳で優勝しましたとかトンカツ屋で三年キャベツ切ってますに見えるタイプの人は他にいるし、そう見える必要があればそういう人にその役をやらせればいい。
だけど「泳げなさそうに見えて実は毎週プールに通ってます」とか「千切りできなさそうに見えてもハイパーオリンピックでは定規使わずにハイスコア出せます」とかが人間の面白さだったりする。
だから、その役を私がやるってだけで、絵空事の人物がより生身の人間に近いものに見える場合だってある。
こうやって言葉にしていくと、なんて複雑なんだろう。
演出やるときは良いとダメとが一目瞭然だし、小説教室の添削でも朱入れに迷うことはないのに。
芝居でも小説でも結局は、そこにある物語が観客や読者の日常より面白ければ良いわけで。
なんで急にこんなややこしい話になったかというと、ブログ更新のtwitterへの反映にはタイトルついてなきゃ駄目らしいからで、そんで珍しくタイトルつけてみたりして、そしたらなんかそれをテーマに書かなきゃいかんような気がして、こんなことになったのです。
タイトルにできるようなことを毎日考えてるわけでも、タイトルになるような出来事がいつもあるわけでもないのになあ。
で、タイトルに戻る。
ゴダールの言葉は、「私はいつも、映像をつくる人たちは音楽を必要としているのに、音楽家は映像を必要としていないという事実を、不思議なことと…おもしろいことと思ってきました」だそうだ。
「小説家は物語を作るときに人を必要としているのに、役者は人を演じるときに物語を必要としていない」んじゃないか、だからダメなんだお前ら、って意味で。
いい役者は、どんな役柄を演じてもただ「そういう人」に、どんな物語の中でも「そういう人生」に見える。
いい小説が、あたかも作家の目が見たようにありもしない世界を描くように。
※この日記は公式ブログ【仕事部屋】http://workroom.blog56.fc2.com/ 過去記事からの転載です。