更新が遅くなってしまったのだけれど…(汗;)
土曜日の午後、ヘルツォークのドキュメンタリー映画の上映会が、上智大学ヨーロッパ研究所によって中央図書館9Fで行なわれた(with 渋谷哲也氏のトークセッション)。
上映会タイトルが「未曾有の災害に挑むカメラ」とあるように、まさに311以降としても、先日のイメージフォーラムでのヘルツォーク特集の興奮冷めやらぬ今としても、絶好のタイミング。
まず1本目はこちら…
『スフリエール火山(La Soufrière)』(1977)30分
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
撮影:エド・ラッハマン、イェルク・シュミット=ライトヴァイン
カリブ海の仏領グアドループ島で大規模な火山噴火が予想され、住民は島外へ避難した。だが、1人の農民が避難を拒んで島に残っているというニュースを知ったヘルツォークは撮影クルーと共に島に上陸。無人化した市街地へと入って行く…
ヘルツォークという映画作家は、ただでさえトンデモな印象があると思うのだが、その彼自身が「もう死ぬかもしれない」と唯一思った作品が本作だという。
35キロ地点に自動カメラを設置し、どこかSF空間のように非現実的な雰囲気の漂うゴーストタウンを進んで行く。
犬の死体、そして、飢えて徘徊する犬たち…ついさっきまで生活が営まれていたはずの、人気がまったくない世界…それはどうしても福島とだぶってしまう。
ヘルツォークは、ただ1人留まっている男性にインタビューを試みている。男性は貧しく、避難することなどできないし、神の思し召しだからそれを受け入れる、死ぬのを待っていると言う。死ぬのは怖くない、と。傍らに猫がいる。猫は人間の友達だ。いつだって寄り添っている。
こんなに危険な状況なのに、こともあろうにヘルツォークは「火口が見たくなった」とまで言い出すのだ。
「避けられない破滅を待つ」という副題が付いているのだが、結局、生きて帰ることができたからヘルツォークは現在も映画製作を続けている。
映画の最後で、ヘルツォークは「こんなに骨折り損な撮影はない」的な発言(!)と共に、避難できない人の貧しい生活が伝わったことはよかったと語っている。
もう1本はこちら…
『暗闇のレッスン(Lektionen im Finsternis)』(1992)52分
(日本公開タイトル「問いかける焦土」)
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
撮影:サイモン・ヴェリー、ポール・ベリフ、ライナー・クラウスマン
編集:ライナー・シュタンケ
湾岸戦争の終結後、クェートで生じた大規模な油田火災の様子を取材に訪れたヘルツォークは、写真家ポール・ベリフと共にこの世のものとは思えない黙示録的な光景をカメラに収めた。あたかも地獄さながらの映像に合わせて音楽とナレーションを交錯させた13章の驚異的な映像詩。
炎が燃え上がるヤバイ現場で格闘する作業員や荒廃した油の海の映像を、スローモーションにしてみたり、荘厳な音楽を大音響で流し続けたり…と、観ていると何だかフィクションな気分になってくる。
そして、「“星々の世界は天地創造のように壮大な…云々”byパスカル」という言葉が冒頭に掲げられるのだが、これは嘘で、実はヘルツォークが自分で作った文章らしい(パスカルでも書けないだろうとのこと;)。もうヘルツォークってば!
本作がベルリン映画祭で上映された時、「悲劇的な状況を美的に撮るとは冒涜だ」「不謹慎作家」と国内からは大ブーイングされたらしい。
だが、ヘルツォークにとって、真実は表層的な記録ではなく、ファンタジーと共に生まれてくるという考えなので、何でもかんでも合理的に説明するのを嫌っているそうだ。
なので、彼にとって“やらせ”は当たり前で、自分が作りたい世界があって、一番の台詞がなければ作ってしまう…その方が真実に近いと考えるのも、理解できる気がした。
なぜなら、ただ現実をそのまま撮って見せたからといって真実(この言葉も危ういのだけれど)が伝わるわけでもないからである。
…こんな話やあんな話以外にも様々な興味深いトークを聞かせてくださった渋谷哲也さん、ありがとうございました。
大学での上映会ということで、こんなにレアな映像と解説付きで無料という…何とも有り難すぎる企画。
上智大学のヨーロッパ研究所…これからの活動も楽しみであります。