「禁止処分とその顛末」 ゲスト:西 周成さん
西周成さんは「日陽はしづかに発酵し・・」の字幕や、大部の著『ソクーロフ』の訳者としてソクーロフ作品に詳しい方です。「孤独な声」の禁止処分とその顛末についてお話しいただきました。これまで日本では知られていなかったソ連の映画業界の実体に触れた内容でした。概略は以下。
「孤独な声」は当初、ソクーロフの全ソ国立映画大学の卒業制作として制作された。それに対して破棄命令まで出たのは異例のことである。彼はドキュメンタリー映画の監督コースに在籍していたにもかかわらず、卒業制作として短編ドキュメンタリーを撮るはずが長編劇映画を作った。この2点だけでもルール違反だった。原作者プラトーノフも、禁止こそされていなかったが当局が忌避する作家だった。大学当局の反応を知ったソクーロフと撮影のユリヅジツキーは、卒業制作として認めさせるために有名人に見せることにした。
まず、セルゲイ・ゲラーシモフ(俳優、映画監督。1906-1985)である。当時既に70歳代で、タルコスフキー(アンドレイ~ 1932年―1986年)が日記にも書いているが、世俗的名声への執着や嫉妬心が強く、レーニン賞を欲しがっていた。彼は途中までしか見なかった。次に見せたコンスタンチン・シーモノフ(アレクセイ・ゲルマン監督(1938年~)「戦争のない20日間」(1976年)の原作者)は、映画に対して肯定的だったが、卒業制作として認めるようゲラーシモフに話す段になると、口実を見つけて逃げた。三番目は当時「映画芸術」誌の編集長だったアルメン・メドベージェフ(ソ連崩壊後、国家映画委員会の議長を務めたりもした人物)で、上映途中で映画大学の学長ジダン(ヴィターリー(1913―)が邪魔をした。そして、これ以上誰にも映画を見せることができないよう、大学当局は破棄命令を下した。それを知ったソクーロフとユリヅジツキーは、ネガを盗み出して大学寮のベッドの下に隠し、「孤独な声」が入っていたフィルム缶に「戦艦ポチョムキン」(1925年/セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(1898年―1948年)のネガを入れた。大学当局が捨てたのは実は「戦艦ポチョムキン」のネガだった。
彼が卒業制作として提出し認められたのは、かつてゴーリキー市のテレビ局で働いていた時に作った「マリア」(1978年)だった。これにより、監督としてのキャリア開始が保証されたことになる。当時は、映画大学か2年制の高等脚本家・監督コースを卒業しないと監督にはなれなかった。撮影所で下積みを重ねて監督になるという選択肢はなかったのである。
タルコフスキーは、他人の映画に対する評価は厳しかったが、「孤独な声」に対しては違った。「モンタージュの方法が間違っている。糸で縫うところを針金で縫っている」とソクーロフに言ったらしく、それに対してソクーロフは「他は何を言われてもいいが、モンタージュだけはダメです」と返した。ソクーロフに同行した脚本家アラボフは、タルコフスキーが激怒すると思ったが、「そうかい、まあいいさ」で終わった。それだけではなく、彼はレンフィルム(レニングラード・フィルムスタジオの略称。現在のサンクト・ペテルブルクにある、1918年設立のソ連で最初の撮影所。名称は当時の市名レニングラードによる)に電話し、ソクーロフの「孤独な声」を見るように言った。タルコフスキーは、その後もソクーロフを高く評価していた。「ノスタルジア」(1983年)の制作でイタリアに行った際の、グレープ・パンフィーロフというロシア人監督と交わした会話が録音され、それは後に「映画芸術」誌に収録されたが、その中で「孤独な声」を高く評価し、「あの映画にも欠点はある。だがそれは天才の欠点だ」と語っている。
1979年、このようなゴタゴタのあった頃のソ連は<停滞の時代>と呼ばれている。1960年代末から1980年代前半にかけてである。当時は、経済的に立ち行かなくなり環境破壊も起きていた。映画産業は比較的優等生だったが、凋落の兆しが見えていた(そうは言っても日本やアメリカよりはずっとましだった。国民一人当たり年間10回以上も映画館に通っていたからだ)。それでも危機感を持った国家映画委員会は、パニック映画やアクション、メロドラマなどの娯楽映画の制作を奨励した。その一方で彼らは、既に海外で評価が確立された創造的知識人の影響力を恐れてもいた(そうした状況は当時ソ連当局が海外向けに行っていた宣伝や紹介からは分かるはずもなく、だからこそ<停滞の時代>の再検討が必要なのである)。ソクーロフのような映画作家は、早く摘まれるべき悪い芽だった。レンフィルムは中央(モスクワ)から離れていたため、比較的そのような雰囲気から自由だった。スタジオの同僚(監督)達はソクーロフを擁護した。また、レニングラード記録映画スタジオでも、彼にこっそり作らせていた。ただし、官僚的なレンフィルム所長は彼を批判した。「孤独な声」のその後だが、存在しないはずのフィルムが、個人のアパートなど、あちこちで秘密上映され、映画大学等の卒業生や芸術に関心のある人々の間では鑑賞されていた。そのように、映画文化というものは、映画を擁護する文化人や知識人が、それを支える雰囲気を作り出していかなければ滅びる運命にある。それは日本でも同じことだ」。
西 周成さんプロフィール
にし しゅうせい ロシア映画研究
全ソ国立映画大学留学を経て、ソクーロフやタルコフスキーの研究を重ね、映像ソフト配給・制作会社アルトアーツを設立。訳書に「ソクーロフ」(パンドラ発行・現代書館発売・品切れ)他。近著『タルコフスキーとその時代』(アルトアーツ発行・星雲社発売)には、今回のトークで一部触れられていたタルコフスキーのエピソードが詳述されています。
http://www.alt-arts.com/