アルゼンチン民主化後の初代大統領の葬儀行列を待つ人々
そして映画祭に明け暮れる日々
自分で言うのもなんだが、“遊び人”って多分自分みたいな人間のことをいうんやと思う。
たしかに、中学時代の家庭科教師にまずそう命名されたのは、まあまあ正しかったかもしれん。ただし、遊ぶという中にも相当危険はつきものな遊びをしてきた。むしろ、あんまりにも安全な中で誰かに囲われるような遊び方なんか嫌やねん。だから、ときどき危険といわれる場所で遊んでみたくなる。今回はそれがたまたま南米の一つの都市だったというのが最初の発端ではある。それでも、あえて危険を冒してでも来るだけの価値があるのが、このブエノスアイレスやった。
ほんまにここは恐れ多くも、“南米の不夜城”そのもののような街。まあ、どんなに経済があかんようになっても、その魅力の衰えは一切感じられず、むしろ尖っていくような感じすらした。そもそもどん底に経済が落ちて、所得ゼロに近くなってダンボール集めする人があれだけおっても、それが理由で自殺なんてする人がいない。ここでは。全員がなんだか一丸ではないにせよ、いずれかの方向に向かって必死でかぶりついてでも生きていく貪欲さがあるねん。さらに、国が貧しくなろうが、街の中にゴミが溢れようが、栄光の時代の輝きを失わない建築物。そして、どこか退廃的なくらいの芸術的な香りが街角のあちこちから不意に漂ってきたりする。そういうところがまさに、どんなに堕ちたといえどもやっぱり「南米の巴里」なんかな。ほんまのパリは行ってないから、むしろ私にはローマとかイタリア的な空気の方が強い気がするねんけど。まあ、どっちにしても世界の中でも特別な場所にはちがいない。
BAFICI映画祭の連日の上映には、多くの人々が列をなした
ちょうど滞在中に開催されたBAFICIと呼ばれるブエノスアイレスのインデペンデント映画祭(自主制作に近い作品のことかな)。まあ、正直なところ、どうせ行くなら芸術関連のイベントに合わせようって気もあって、ちょうどそれが運よく重なってん。この映画祭は意外にもアルゼンチンの文化庁とかブエノスアイレス市が非常に力を入れているようで、宣伝なんかも随分前からかなり華やか。まあ、そうは言っても最初はあんまり運営がしっかりしてない印象を受けたけど。こっちも映画祭の切符の売り方や情報の出し方が分かりにくくて、ちょっと慣れるまでは右往左往したもんやで。でも慣れてしまえば、こっちのもんで期間中のほとんど毎日を映画館というか、複合映画施設の入ったショッピングセンター「アバスト」に通って過ごすことになるのであった。
この「アバスト」というのが、多分その時点のブエノスアイレスで最も大型の高級ショッピングセンターやったんちゃうかな。(その後、映画祭が終わってからもっと凄いのができたのをテレビで見た)地下鉄の「カルロス・ガルデル」という伝説のタンゴ歌手の名を取った駅を出ると、地下からもうショッピングセンターに繋がっているので、非常に便利。そして中には高級ブティックからレストラン、子供のアミューズメントパーク(一種の遊園地的な)、電化製品の店、ファーストフードの集合店舗やレストラン、もうなんでもかんでも入っている感じなのだ。しかも、天井がめっちゃ高いし空間使いがデラックス。映画館も20か30スクリーンくらいあった。
伝説的タンゴ歌手のカルロス・ガルデル
なんでも、この建物の前は有名な市場だったらしくて、そこで前述の伝説的タンゴ歌手のカルロス・ガルデルが働いていたとか。ほんまにカルロスというのは、スペイン系に典型的な名前なので私ですら複数のカルロスを知っているほどだが、アルゼンチン広しといえども空前絶後の存在だろう。それくらい歴史上のヒーローのような人なのである。このカルロス・ガルデルの甘いマスクと歌声、そして出演映画というのはそれこそ、当時の世界各国の女性の心を掴んだというくらいの人気やったという。でも不慮の飛行機事故で若くして亡くなっている。
実は一度、彼の住んでいたところを改修して作った博物館にお邪魔してきた。たしかに、今見てもなんとも不思議な謎めいた魅力のある男性であることにまちがいないわ。この元住居というのも、レトロさをそそられる全体的にコロニアルな雰囲気。決して広くはないが、アルゼンチンの最盛期の時代ぶりを伺わせていて良かった。
ブエノスアイレス恒例の映画祭ロゴマークの色も実は国旗と同じ
そんなわけで、歴史的にも意義深い場所でせっせと日夜映画を見続けた。我ながら、あれだけけったいな映画ばっかりよく見たな~というくらい個性的なセレクトやってんけど、まあアルゼンチンでしか見られないものを見るのは正解としよう。今思い出しても、まず絶対に日本ではなんぼ払っても見られそうにない作品の数々やったもんなあ。
すぐに思い出せるだけでも、フランス映画で日本の映画関係者のインタビューをまとめた「日本のヤクザ映画の歴史」だとか、ロシア映画でスーパーコンピューターと対戦して有名になったチェスの王者カスパルスキーが、ロシアの大統領選に出馬したときに、プーチン親衛隊から受けた嫌がらせを克明に捉えた、まあ反プーチン勢力の側から見たドキュメンタリー映画だとか、その昔、アメリカで撮られた一種黒人の歴史を変える予言的な「モハメド・アリ」のドキュメンタリー、アルゼンチンの暴れ馬を乗りこなす「ガウチョ」親子の物悲しい人生を描いた映画、アルゼンチンのユダヤ系女性監督が撮った或る少女の田舎での一夏の思い出を描いた映画、またまたロシアの白黒映画でウラジオストクみたいな辺鄙な港町などを描いた無機質的に美男美女が登場してくる不思議な短編、たしかチェコの映画でポーランド人の演劇関係者がやってきて「カラマーゾフ兄弟」を倉庫のような工場の中で演じる中で起こる事件を描いた映画、とかまあ、ほんまにふつうでは見られない作品ばかり。でも、どの作品もほんまに個性が強くても、一定以上の水準で随分見応えがあってがっかりするようなものは一本もなかったな。映画祭ではなくて、街で偶然みたウッディ・アレンがバルセロナを撮った奴が最悪だったけど。
しかしそれにしても、このようなちょっと特殊な映画を見せるために市内のかなりの数の映画館が協力していて、しかも映画の料金なんて普段でも安いのに、たしか200円か300円くらいではなかったかと思う。たしかにどの映画も満員というわけにはいかず、有名どころのタルコフスキーの「ストーカー」なんか満員だったり、大島渚について描いた映画の方にどっと人が押し寄せているのに、ロシアのドキュメンタリーなんてガラガラだったり、いろいろとアルゼンチン人の好みが分かってそれも面白かった。
BAFICI映画祭での特別な映画体験
さらに、アルゼンチンの女流監督Julia Solomonoffという人の作品の後には観客が直接監督に質問できる質疑応答コーナーがあって、これはわざわざ別の映画館に足を運んだ甲斐があったといえるくらい、アルゼンチンの文化的空気に溶け込めた瞬間やったわ。映画が終わった後の会場内にいる人々が一人たりとも席を立たず、ちゃんと最後まで参加しながら、ちゃんと言いたいことも感想もしっかり発言しはる姿は気持ちよく好感が持ててん。まず挙手した人は、ほとんどの人がまず自分の感想とか映画への賛辞を述べた後、「あそこはどういう風に撮影されたのですか?」とかちゃんと一言くらいは質問もする。
アルゼンチンでタンゴの伝説的歌手といえば、カルロス・ガルデルなのだ!
なんか、物好き関西人の私はこういう場に日本でも多々参加してきたが、ここまで「きちんとした発言」ばかりの質疑応答も珍しいくらいに、発言者のレベルが高いねん。これにはちょっと驚いた。たしかに年齢層は多少高かったけど、大学生くらいの子らも結構いたしなあ。みんな、ブエノスアイレスの映画好きは思ったより高度に洗練されて文化的という感じや。
今までの経験から言わせてもらうと、まあ日本の文化関連イベントとかでたまにこういう場があると、とんでもない質問しだす人とかいたりする。一回なんかは質問した人は悪気なかったと思う。でも、「あなたと同じ考え」とか偏屈ロシア人に言ったのがまずかったらしい。すぐさま、「お前なんかと同じにされてたまるかいな」とロシア人の監督がめっちゃ激怒したこともあったっけ。あれはあれで大変貴重な体験だったものの、この度のこのアルゼンチンの和気藹々とした幸福感溢れる質疑応答。やっぱり、地元の監督ということもあるし、上映された作品に対する好感度が高かったということもあったかもしれない。とにかく、監督の女性もさすがユダヤ系だけあって頭の良さそうな人で、スパスパと必要に応じて気持ちいいくらいに的を外さない答えを返していく。ほんまに無駄のない回答ぶりだけど、すごく質問者を身内の扱いしている感じで、態度にえらそぶったところが微塵もなくて、なんかあったかいねんわ。だから、その話を聞いているだけで映画の現場風景が浮かんでくるみたいな気分になれた。ただ、どこの国に行っても映画関係者って、ユダヤ人多いな~と思いつつ。
まあ、それにしてもこの映画祭というのは世界的には多分無名ながら、なかなかすごいもんやったわ。宣伝の仕方もさり気なくセンスがあって、それでいて押し付けがましくなく、テーマも出品作品も自由奔放なテーマのわりに、全体的にレベルが高くて、ほんまもっともっと見たかったわ。アルゼンチンの文化関係者は多分かなり平等な選考をしている気もした。世界各国まんべんなく参加しているのも驚いたし。
東京とか、日本国内の映画祭も本気でやればあれくらいの作品を2週間くらいで一気に見せることくらいできるやろうに。やっぱり国際映画祭と名付けるんやったら、けちなこといわんと、もっとどばっと数と質と量のある映画を、せめて500円くらいで毎日切れ目なく見せてくれたらええのになあ。
カルロス・ガルデルの顔が出てくるだけで雰囲気も古き良きブエノスアイレスになる
ほんま、あのダイナミックさと、気前の良さという点では、ブエノスアイレスの映画祭って、下手するとそこらのヨーロッパとかの有名な映画祭にも負けへんのとちゃうか。やっぱり、南米最大の都市だけあってプライドをかけてる感じがひしひしと伝わってきた。しかも、経済悪かろうとなんとか採算合わせようなんて気がさらさらなくて、とにかくええもんを見せたろうという心意気があった気がする。なんか映画も気合とか気迫のある場所で見ると、同じもんでもちがって見えるわ。BAFICI映画祭では、そんなちょっと特別な映画体験をさせてもらった気がするねん。
ブエノスアイレス最後の数日
そして、ついに風来坊のようにアルゼンチン全土を行脚していた数週間の旅行から、ついに帰路につく日が近付いてきた。久しぶりにブエノスアイレスに帰ってくると、なんだかもうすっかり秋の空気になっていた。街路樹も色づいてきているし、なんとなく空の色も肌寒い感じの気配もまるで以前とちがう。それでもこの街に戻ってきて、馴染みの通りを歩くとなんともいえない懐かしさと「お帰り」と言われているような感覚に包まれて、なんとなく幸せやってん。
とはいってもブエノスアイレスに来て転々としたアパートも、もう荷物を引き払っていたので、あの間借りしていた鳩の見える窓辺には戻れない。ただ3ヶ月もいれば、自分の馴染んだ範囲の土地勘で便利な場所にホステルを確保するくらいの余裕はあったので、旅行前にちゃっかり前金で手は打ってあった。まあ、こんな便利な場所にひっそり奥まって、まるで居心地のよい隠れ家のような場所があるなんて、最初に行ったとき、二重の扉の奥に通されて驚いた。さらに、宿泊当日の朝に到着して案内されるままについて行ってびっくり。まさか取って置いてくれた部屋が、そのホステルで一室だけある特別室だとは思わなかった。
どういうわけか予約時点で見せてくれた部屋は、外に共同シャワーがあって質素そのもの。たしかに払う値段が値段だけに、まあそれでも仕方ないかと思って期待してなかったので、ほんまにこの部屋の立派さには感動もんやったわ。なんでか知らんけど、私一人のためにベッドが3つもあって、立派なバスタブとシャワー付き。インテリアのセンスもなかなかだったし、次も絶対ここにこようと思いたくなるくらいだった。
しかも、ホステル全体的にブエノスアイレス独特のセンスともいえる、カラフルなペンキで塗られた外壁は見ているだけで陽気な気分になるし、なんとなく天井も高くて開放的だった。早速、部屋に荷物を置いてトランクを預けていた学校まで取りに行く。それから、残り二日で何をするか考えていたら、考える間でもなく唐突に例のスイス人の友人から最後の晩に一緒に外で食事しようというメールが入り、夜の予定は決まった。
カルロス・ガルデルの働いていた市場の近くは今は大規模ショッピングセンターに変貌
このスイス人というのが、初日に思い込みで自分の学校に間違って案内してくれたり、ちょっとドジな子やねん。だから正直なところ、待ち合わせが心配やってんけど、やっぱり相変わらずドイツ系にしては適当な感じで「じゃ、オベリスクの辺で」ということで巨大な交差点のどっちから来るかわからん相手を高層モニュメント前の芝生の辺で、ぶらぶらしながら待っているという有様。またしても、ただの怪しい東洋人みたいなことをやっていたら、向こうからスイス人とアルゼンチン人の三人組がやってきて合流。
それから、四人でタクシーに乗ってアサードというアルゼンチンのダイナミックな焼肉を食べに、ポルトマデーロという高級住宅街方面へ。初対面にしては残りの二人も気さくなのですぐに打ち解ける。レストランも値段のわりに雰囲気もよかったし、歓談も最後の晩餐にふさわしい盛り上がり方やった。それにしても一番忘れられないのは、食事自体よりも一杯入って店を出てから、ブエノスアイレス一番の港湾の景観地帯を千鳥足の女四人組でだらだらと喋りながら歩いたときの、なんともいえない開放感だった。
何度かこの場所に来たこともあるし、別にここが大好きというよりは、あんまり高級感がありすぎて前は違和感があったのに、やっぱり港のそばの空気は神戸出身の自分には合うのか、あまりにも当然のように地元を歩いている感覚で、まるで同級生でもない他所の国の子たちといるにもかかわらず、まるで兄弟姉妹のような親密さで時を共有して、自由自在に海の中を泳いでいるお魚みたいな気分になって、いつまでもいつまでもこういしていたい感じやってん。ちょうど子供のときに、日が暮れても永遠に遊びたかったのと似た気持ちで。
最後に手に入れたアルゼンチンタンゴのSP、10枚
それから、翌日になって雨模様。でもブエノスアイレスにいる間に、絶対やらなあかんことをひとつ思い出した。そう、京都の二条城の前に住んでる収集家のおっちゃん所有の蓄音機でかけてもらうために、アルゼンチンタンゴのSPレコードを買いにいかねば! 別にこの方に頼まれたわけではないけど、やっぱり私のこだわり方としては、現代のタンゴもいいけど、古き良き時代のタンゴというのを大きな蓄音機の傘を通して帰国後に改めて聴いてみたい気がしてん。
地下鉄の駅の名前まで「カルロス・ガルデル」ってそのまんまやんか~!
それにしても、最後の数日というのはすさまじい勢いで雨雨雨やったわ。季節的なことももちろんあると思う。でも、既にブエノスアイレスに対する思い入れが深すぎて、なにもかもを擬人化して感じ取っていた私からすると、ほとんどそれは、「号泣状態」に近かった。そんなわけで、ほとんどブエノスアイレスの流す大粒の涙に押し流されそうになりながら、必死でサンテルモの骨董品街へと向かうことと相成った。
この辺りはちょっと治安も悪いとか言われているけれど、なかなか魅力的な一帯で超高級なアンティークから、ほとんど粗ゴミに近いものまで果てしなく思えるほどの数々の過去の品々が並んでいる。もちろん、この日までに何度か訪れたことがあったものの買う勇気がなかってん。しかしこの日は「もう最後のチャンス」という気があったので、必死で「SPレコード」という単語を辞書で調べて尋ねて歩き回ってん。
すると、骨董品市場の汚い店の奥で私の探している品々は、さらに奥の古ぼけたたんすの中から出てきたんやわ。もう割れたのや欠けたのまで出るわ出るわ。おっちゃんも珍しい客に調子に乗って、次々と説明してくれるねんけど、あんまり聞いてる時間もあまりないので「もうええから、適当にアルゼンチンのタンゴ歌手のSPを10枚くらい選んで」と投げやりに頼む。
骨董品屋のおっちゃん、「へいへい」と嬉しそうに即座に選んでくれる。よっぽどいつも客が少ないのか、それとも愛想がいい人だったのか、もう抱きついてきそうなくらいに喜んで名刺までくれて「またいつでも買いにきてな」ってな言い方をする。いつでも来れるんやったら、こっちもうれしいねんけど。まあ、こっちの人に限らず、グルジア人なんかでも、日本から見るとどう考えても、かなり渡航困難な国の人ほど「またいつでもこればええやん。あんたのこと待ってるから」という感じやねん。まあ、それに乗せられて、こっちもまたついつ行ってしまうから怖い。でも、多分また来るという確信を持たせるような顔を自分がしてるんやろうなあ。
カトリックでは重要な日、復活祭では華々しい神輿行列が大通りを行進する
それからまた、激しい涙雨の中を掻き分けるようにして宿へ戻ってSPレコードを梱包する作業に取り掛かる。これには新聞紙が必要だったので、受付のお兄ちゃんに提供してもらって、ちょっと読めるところを読んだりしながら包んでいたら、スポーツ関連の一面写真にマラドーナの後継者といわれている若手のメッシーの写真があった。なんとも爽やかな青年やな~と思うけど、バルセロナに移って活躍しているからか、アルゼンチンらしさをあまり感じない。だから、ナショナルチームに頑張って入っているわりに、いまいち本国からは熱狂的な応援を受けられていないのかなあ、なんて思いながら。
そしてまた雨の中を今度は薔薇の花を買いに行く。え? 一体誰に渡すかって。そりゃいろいろありまんがな。まあ、こんな大雨の中を最後の最後まで、空港へ見送ってくれるという素晴らしい友人のために。あんまり花屋がないから、結構うろうろしたけど最終的に気に入った薔薇を見つける。雨の中で大きな薔薇の花束を抱えてブエノスアイレスを歩くってのも、なかなかええ気分や。それから、数時間は雨音を聞きながら広々としたロビーの暖炉のそばのソファに腰掛けて過ごした。やっぱり、最後まで自分の如き人間のために会いに来てくれる人がいるというのは、それだけでも心強かった。そして、期待を裏切らずオルガはやってきた。ほんまに、彼女こそが「ブエノスアイレスの人情」を証明するような生粋のポルテーニョやった。そして、そんな彼女の我侭に付き合って、貴重な週末にわざわざ遠方の空港まで運転して見送ってくれる旦那さんのエルネストも。
外は相変わらず雨が激しく降りしきっていたけど、一旦車に乗ってしまうと快適で、あんまりスムーズに空港に近付くのでなんか残念なくらいやった。あの最初のモスクワのときみたいに車輪が一個転がっていくようなハプニングは起こらんかった。もちろん、高速でそんなこと起こって貰ったら困るけど。でも気持ちの中では、あまりにも離れ難いこの街を残して、一体自分は何処へ行くんやろう? というような後ろ髪引かれる思いの方が強かった。
別世界のように整然としてモダンなポルト・マデーロは港町らしい雰囲気がする
とはいえ、オルガは相変わらずいつもの調子で喋っていて、エルネストもそんな感じだった。だから、車内では私もそれほどセンチメンタルにならずにいられた。ただずっと叩きつけてくるような雨の音だけが、強烈に何かを叫んでいるように思えた。空港に着くタイミングを見計らって、私にできる精一杯のお礼の気持ちを薔薇の花束に託してオルガに贈った。彼女はちょっと驚いたように目を見開いて、その芳しい香りを嗅いだ。そして、私と一緒に車を降り、トランクを持って列に並ぶところまで見送ってくれた。ほんまに正直涙を堪えられない別れやった。でも、アルゼンチン式の別れ方はそんなじめじめしたもんやったらあかんと思って、涙は見せないように努力した。
ひとりになって、いろんなことを思い出すと泣きそうになるので、できるだけ飛行機に間違いなく乗るという目の前のことに専念するようにして、空港内の時間を過ごした。離陸するとき、本当に自分の心と体が切り離されてしまうような、なんともいえん苦痛を感じながら、おそらくブエノスアイレスと自分はこれで最後じゃない気がした。こんな親密な関係になってしまった以上、多分これで御仕舞いというわけにはいきそうにない。こんな情熱的な人間関係を味わってしまったら最後、なんかもう他人になれへんわ。いつ何処にいても多分、この場所は永遠に私の人生で特別の場所であり続けるんやろうと思う。そしていつかまたこの街を闊歩する日がくることを半ば夢見ながら、長いようで短かった「ブエノスアイレス片思い」の回想を終えたいと思う。
P.S.
当初軽く想像していたよりも、この「ほぼ毎週手記を書く」ということは大変な作業でした。ただ個人的にどんなすばらしい体験してきてもそれをほったらかしていると、記憶も錆びる一方です。とりあえず、まず何かの形でその記憶を残せたことは大変うれしく思っています。「ブエノスアイレス片思い」と名付けて、かなり気まぐれなテーマに沿って書き進めた手記でありました。大体こんな立派な場所を借りて実現できたこと自体、私にとっては奇跡的です。こんな私を励まして下さった浅井さん、世木さんはじめ、webDICEのみなさまの御協力で最後まで乗り切ることができて、本当に感謝しています。そして、最後までお付き合い頂いた読者の方々にも大変有難く思っています。どうもありがとうございました。
(写真・文:東知世子)
【関連記事】
■アルゼンチン片思い
これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/21/
■東知世子 プロフィール
神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。
その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。