2010-03-18

『息もできない』レヴュー このエントリーを含むはてなブックマーク 

冒頭、女を殴っている男を殴りその女を殴りタバコに火をつけた瞬間、主人公サンフンは殴られる。あるいは中盤、借金の取り立てにゆき、妻を殴る夫を殴りながら、サンフンが吐く言葉。「殴る人間はいつか自分が殴られることを知らない。」

拳が、包丁が、金槌が、つないでゆく暴力の連鎖が、やくざ者のサンフン、高校生のヨニ、二つの家族の運命を絡め取ってゆく。その姿を不安定なカメラは辛うじて追いかける。

漢江のほとり、それぞれの家族の鬱屈をぎりぎりまで抱え込んで、サンフンとヨニは寄り添う。このもっとも美しい場面でさえ、ふたりは何も分け合ってはいない。分かち難くつながった、ふたつの家族の内情はたがいに語られない。ふたりそれぞれひとりぼっちで涙を流す。

終盤、もうひとつの新しい家族の予感を描いた後、暴力の鎖は鮮やかに完成されて、映画は終わる。鎖の端っこには、ヨニがひとり立っている。宛て所のない憎しみをひとり受け止めて。

映画の結末は伏線から見え透いているとも言えるし、ヨニの父がベトナム帰還兵だとゆうのも、悪役をアメリカに押し付けたがる韓国映画の悪い癖だ。見終わった後から振り返れば、わかりやすい「トラウマ」による理由付けをつなげてできた映画にも思えてしまう。

しかし、個人の意思を越えて、どす黒い太いうねりとなった暴力の連鎖から逃れることのできない家族の姿は見る者の息を詰まらせる。

そして、もう一方の鎖の端、すべての発端に立つのが誰なのか、観客は忘れてはいけない。
孫と嫁に囲まれ微笑を浮かべながら、今では優しいおじいちゃんの席におさまっている男。
サンフンの父。

彼がどんな「トラウマ」を抱えて、暴力に走ったのか、映画では描かれない。しかし、このとき、言葉にならない問いが問われているのではないのか?

人間の暴力に、理由などほんとうに必要なのか?と。

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a0ta9000

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