2014-04-11

『花子とアン』をここまで見てきたが、 このエントリーを含むはてなブックマーク 

控え目に言って、今んとこおもしろさがわからない。
この花子というキャラクターを動かして、なにを伝えたいのかがわからない。

なにか要所要所で、肝心な描写が抜けてる気がする。

甲府にいた頃、本がたくさんある教会の部屋に忍び込んだことを後で反省し、
花子が牧師さんに謝ると母親に約束しはしたものの、その大事な謝るシーンはなかったし(『赤毛のアン』のほうなら、そういった謝るところを描くことこそが大事)、
お父さんが東京のお嬢様学校に花子を入れるために奔走したという説明はあったものの、
具体的にどう奔走したのかは出てこなかったし
(『赤毛のアン』もクイーン学院に入ったあたりが説明不足だったけど、村岡花子訳は抄訳だということだし)、
花子が最初は英語が苦手だったということはわかったのだけれど、
そもそも、abcを誰かが教えようとしてくれたのか、
それとも、abcすら教えずにこんなのもわからないのですか! と先生たちが責め続けたのかもわからないし。

とか思って見続けていたら、どうもほとんどは脚本家の作り話らしく、各エピソードは事実とはまったく違うらしい。
そりゃ、あんな教育で英語がわかるようになるわけないよね。
実際には一家でそろって東京に出てきたらしいのに、ドラマでは花子だけ学校に入るために上京したことにもなってるし(ということは、あのしんどそうだった天秤棒かついでの最初の水汲み風景もうそ?)。
こんなことで、伝記ドラマと言ってしまっていいのでしょうか。
どうせだったら、ベストセラーの『赤毛のアン』を初めて訳した村岡花子の、
真の姿に迫ったものが見たいんだが。現代に合わせた単なるお茶目な女の子のへたな元気づけのようなドラマではなくて。

この描き方だと、花子は貧困からはい上がってきた才能ある女性というよりも、
簡単に給費生になれたすごく恵まれた人に見えてしまう。
しかも、お茶目と言うよりは、はっきり言ってちょっと軽薄なぐらいの思慮のなさ。

と、けなしてばかりいては品がないのでどこかほめておこうかと思うが、
となると、やっぱりそれは、寄宿舎生活をしている乙女たちの姿ぐらいだろうか。
「髪におリボンをつけないのは、着物に帯をしないのと同じことなんですって!」
(記憶にあるだけのせりふなので不正確)
と、同じ部屋の同級生に言わせてしまうところとか。
毎回色とりどりの、乙女たちのふだん着にしろあでやかな着物姿とか。

先月まで第二でやっていた、お気に入りだった市原悦子朗読の『赤毛のアン』も、
訳書と突き合わせて聞いてみたら、ところどころかなりはしょってあったけど
(それとも、同じ村岡花子訳の別の版だったのか?)、
あの場合はだからこそ、朗読というよりも一人芝居のようになって、
市原悦子の持ち味も生かせたのだろうし、ラジオドラマ的な効果があったとは思うのだけど、
このドラマはどうなんだろう。
小説としての『赤毛のアン』をほんとうに好きだったり、
翻訳家としての村岡花子に興味を覚えている人は、残念ながら見る必要がないかも。

いくら朝ドラとは言っても題材にする以上は、もうちょっと事実に忠実に作ったほうがいいのでは?

花子が大人になってからならどこか見どころがあるんでしょうかねえ。

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Reiko.A/東 玲子

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