ブラジル・リオのスラム街に生きる“貧困層”の日常を綴ったドキュメンタリー『私は幸せ』。日本人とレバノン人のハーフという新鋭・梅若ソラヤ監督の作品だ。
同じ街の「海側」(=中産~富裕層)と「山側」(=貧困層)で、住む階層が分かれているという実態に、世界有数の(建前)平等社会・日本とはかけ離れた“可視化された差別”を痛感させられる(日本でもかすかにある「海側=庶民街、山側=高級住宅街」という区分と真逆なのも興味深い)。
山側の人々は、スラム街を「好き」とも「出たい」とも同時に言う。どちらも本音に聞こえる。汲み取ると「愛する街を、よりよく変えたい」というビジョンか浮かび上がってくる。
人々は、差別や貧困を憂いながらも、基本的にはそれを受け入れたうえで、前向きにひたむきに生きているように見える。恣意的に「後ろ向きで自暴自棄」な人々は被写体から外したのかもしれないが、総じて人々は明るい。
そこで、タイトルでもある「私は幸せ」につながってくる。正直、撮り手が期待した通りに言ってもらっているのでは、という気がしていたが、どうやら彼らは心底「幸せ」と言っているように思えてきた。
そこには三つの要素が織り交ざっていそうだ。まずは陽気なラテンの国民性。日本人なら「私は幸せ」とは口にしないだろう。
次にアファメーション効果。過酷な現実にくじけないためのおまじないとして、幸福感を自他に刷り込むという、一種の処世術だ。
最後に、より根源的な幸福感。お金や薬など物質的な充足とは別次元の、「自分のやるべきことをひたむきにやり続ける」ことで得られる心の充足は、他の何物にも代えがたい。環境とは関係なく、グラフィティーアートでもヒップホップダンスでもメイド労働でも、生きがいを持つ人は輝いている。
ひとつ不幸があるならば、そういった「打ち込むべき生きがい」を見出す機会すら持てないでいること、だろう。フィルム上の輝く笑顔の裏に多く隠れているであろう、困難に押しつぶされている人々。その不幸の連鎖だけは、社会全体で断ち切っていくに越したことはない。