で、思い出したことがある。
いや、いつでも覚えていることがある。
まだ二十歳前のこと、
しばらく精神的に引きこもっていた私はある時、無性に海で泳ぎたくなり、
映画友だちを誘ってみたら、
いいよ、と言うのでいっしょに鎌倉の海水浴場に出かけたが、
水着を持ってきたのは自分だけで、彼女は海に入ろうとしなかった。
浜辺で座って見ているだけでいいんだって(はあ?)。
それで私だけ海の家で着替えて、
彼女は込み合った浜辺の空いたところにシートを敷いて座って、
私は海に入っていって浅いところでじゃぶじゃぶやって、
彼女は浜辺でずっと膝を抱えながら私を含めた海でたわむれる人々を見ていて、
私はひとしきり遊んで満足すると彼女のところに戻っていって、
帰ろっか、ということになって、
私だけまた海の家でシャワーを浴びて、いっしょに帰ったのだけど。
ほんとにそれでいいの? と聞きたくなるような(いや、もちろん先に聞いたけどね)ある休日の午後だった。
ちなみに、この思い切っての休日は私には高くつき、
拒食症上がりだった私はビタミンが不足していたのか、
紫外線を浴びたせいで両腕の内側にダルメシアンのような黒いしみが無数にできた。
これはそれから丸々1年間消えなかった。
一生消えないのかと思ったけれど。
それ以来、陽射しの下で海に入るということは私にとっては忌むべき行為となり、
その後、20年以上海に入ったことがなかった。
久しぶりに入ったのが一人で行った八丈島の海で、
この時はシュノーケリングをしたので、生まれて初めてニシキベラに出会った。
しかしそれ以降、実はまた海には入っていない。
なにを言いたいのかというと、
海水浴場に行くというのは私にとっては恐ろしい行為。
あの陽射し、あの人の群れ、めまいのしそうなにぎやか過ぎる光景。
楽しそうだけど、後でどうなってしまうかわからない。
しかしそれを敢えてすることで、今まで知らなかった発見があるかも知れない。
込み合った浜辺に立ち、自分も浜辺の人の一人と化してしまうことで、浜辺そのものにもなれるかも知れない。
あの時、浜辺で私を待つともなく待っていてくれた友だちが、
私にとっては浜辺そのものだった。
そんな気が友だちにあってもなくても、彼女はそこにいることで浜辺と化していた。
浜辺はこの間の日中の代々木公園でもある。
ただそこにあることで、いろんな人を迎え入れてくれる。
雑多な人々と交じり合うともなく交じり合うことで、また別の自分が生まれていく。
サビアン天秤座21度の「A crowd upon the beach」に通ずる話かも知れません。
ちなみに海水浴につき合ってくれたこの友だちは高校時代の同級生で、
よくいっしょにいろんな映画を見に行ったものの当時も今も親友でもなんでもなく、
確か、ここ10年ぐらい会っていないと思う。
最後にいっしょに見に行ったのが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だったかな。
彼女にとっては海を眺めていただけの海水浴は、
おそらく私につき合ってあげよう、というほどの意識もなく、
ただ誘われたからいっしょに来た、だけぐらいのものだっただろう。
でも、そんな行為がきっと、さらに浜辺の人々を増やしていく。
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