『篤姫』で十数年ぶりに大河ドラマの視聴者に引き戻され、
うっかり続けて見ているほのぼの大河『天地人』
(これについては、暇があればまた後日)ですが、
第15回目の『御館(おたて)落城』
(先週録画し忘れて、土曜日の再放送を夕べ見たんで、一週遅れのレビューとなってしまいました)は、
なにか、心にしっくりと来ないものが…。
それは、華姫の生き方、もしくはその愛の形。
跡目争いで、正式な上杉の城主に反目する形となった夫、景虎につき従い、
陰ながら支えて、愛を注いできたはずなのに、
それでも夫の人に対する根深い不信感をぬぐうことはできなかった。
もちろん、景虎は、
一度は疑ったことがあるとはいえ、
自分の妻の自分に対する思いには疑いを抱いてはいなかったのですが、
それならばなぜ、彼女のその愛をもってしても、
裏切られっぱなしの人生、という景虎の思いを変えることができなかったのか。
1人の女の愛じゃだめなのか、それとも、そもそも他人に支えられてようやく立ってるようじゃだめなのか。
このあたり、むずかしいですが、
元々、華姫のようなこういった愛情の注ぎ方は、
自分もそのような形で愛情を注がれたいという思いの裏返しであることが多く、
そのため、2人だけの関係に閉塞しがちで、
愛を注ぐ側も注がれる側も、互いにがんじがらめになっていく傾向がある。
ここでは、景虎の華姫に対する思い入れはあまり描かれませんでしたが、
華姫は夫の心に寄り添いたいあまり、
実の兄景勝を、夫の人間不信を高めたという理由で憎むようになっていた。
しかし時は戦国時代。
女にほかの生き方などそうあろうはずもなく、
華姫が夫への愛に全身全霊を注ぎまくったことを誰も責められようもないのですが、
それにしても、
「もはやわしに、人を信じ抜く力は残っておらん」
という言葉を残して自害してゆく景虎を見ると、
華姫のしてきたことはなんだったのか、という気になります。
むろん華姫は、その夫に冥土までついてゆくのです。
物語の美学としては、不運ながらもうるわしき夫婦愛とか、
最後までいちずに夫を愛し抜いた妻、とかいうことになるのでしょうが、
私には、なにか華姫の献身がむだになったような気がしてなりません。
「誰か」は「誰か」が献身するぐらいじゃ救えないんですね。
「誰か」は「誰か」が自分で立ち直るのを、ほんのちょっと手助けしながら待っていなければならない。
華姫のせいいっぱいの愛は、あんなにせいいっぱいだったのに、夫を生き直させることができなかった。
最後、景虎は命の消えた華姫を抱きながら、
まんじゅしゃげの咲く中、同様にあの世へと旅立ってゆく。
この2人の来世がどうなるのか(あ、どうなったのか)、とっても気になりました。
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ところで、今月はすでに締め切らせていただきましたが、
Reiko.AのTabelaでのタロット・リーディングについての詳細はこちらです。
↓
http://www.webdice.jp/diary/detail/2166/
5月は、7日からまた毎週木曜日となりますので、
よろしくお願いいたします。