2017-07-15

世界10か国以上の国際映画祭に選出されているドキュメンタリー映画『ぽんぽこマウンテン』の独創性について。 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 私が昨年制作した『ぽんぽこマウンテン』という作品については、国内外の複数の批評家から肯定的な批評を頂いており、また国際映画祭など20近い国際フェスティバルに選出されていることからも、ある一定の評価を得ていると考えています。私はドキュメンタリーから映画もしくは映像という表現を考えるようになったこともあり、日頃からドキュメンタリーという言葉から想起されるある種の定型からいかに遠ざかるか、ということを考えているのですが、とりわけ、この作品をドキュメンタリーとして見た場合、その独創性とは何か、このわずか10分の作品で私が提示しようとしたものとは何か、少し自作について語ってみたいと思います。
 第一に、私の考えでは、ドキュメンタリーと呼ばれる表現の大半は、時間的にも空間的にも特定の個人や事象を「追う」という行為によって成り立っており、ある種の定型となっていますが、拙作の特徴は、何よりも「追わない」ドキュメンタリーであるということです。追わないということは、被写体という概念を消去する可能性も示唆するのですが、その作品それ自体が、被写体への従属から開放されている、被写体から自由であるということを示唆しており、その意味において拙作は独創的な作品になっていると思います。ちなみに、ドキュメンタリーを語る言葉で多用される言葉に「密着」という言葉がありますが、「密着」という言葉で形容される表現は、私にとってドキュメンタリーではありません。
 第二に、私の考えでは、この世界は「他者の苦痛へのまなざし」(ソンタング)で満ち溢れているのですが、ドキュメンタリーと呼ばれる表現は、娯楽作品を除けば、「他者の苦痛へのまなざし」と親和的な表現形態であり、社会的弱者や、程度の差こそあれ、人々の何らかの苦しみや困難に対してキャメラは向かう傾向にありますが、拙作は、そのような「他者の苦痛へのまなざし」あるいはそれから派生するドラマ性に依拠する形では作られておらず、そのまなざしは「他者の苦痛」とは反対のベクトルに、つまり「他者の幸福」に向けられているという意味において独創的な作品になっていると思います。
 第三に、私の考えでは、ドキュメンタリーと呼ばれる表現は、映像というメディウムが持つ記録性と親和的な表現形態であり、失われていく文化、風俗、街並みなど、何かを記録することがキャメラを廻す契機になる場合が多いのですが、拙作は、そのような映像の記録性に依拠する形では作られていないという意味において独創的な作品になっていると思います。
 私の考えでは、ドキュメンタリーと呼ばれる表現の大半は、上記の三つのいずれかの要素に依拠して作られているのですが、拙作は、そのいずれにも依拠して作られてはいないという意味において独創的な作品になっていると思います。私にとって最も本質的なドキュメンタリーの映画作家は、リュミエール兄弟ですが、私の考えでは、彼らの作品もまた、上記の三つの要素のいずれにも依拠して作られているわけではありません。拙作は、写っているものの社会的意義や記録的価値に依拠して作られたドキュメンタリーではなく、映像の表現もしくは映画的探求の結果として生み出されたドキュメンタリーであり、それこそが海外の多くの映画祭に選出されている理由だと思われます。また、一方で子ども向けの作品として映画祭で上映され、他方でアート作品としてヴィデオアートのフェスティバルで上映されるようなドキュメンタリーは実際には稀有であり、そのような多面性も拙作の独創性だと思っています。
 このようなことは拙作を作る前から考えていたことですが、そのような制作の意図はなかなか理解されないということが最近分かって来たので、少し書いてみました。

吉田孝行作品『ぽんぽこマウンテン』
(撮影・編集:吉田孝行/2016年/10分/HD/16:9/白黒)
「ぽんぽこマウンテン」とは、日本のとある公園に設置されている白い色のエア遊具のことである。雪山のようなトランポリンであり、その上で子ども達は、ぽんぽこ飛び跳ねて遊んでいる。本作は、曲線のあるユニークな風景の中で、無邪気に遊んでいる子ども達の姿を、動画と静止画の組み合わせによって表現したモノクロの映像作品である。作品の冒頭に引用される「子供心を失った者は、もはや芸術家とはいえない」という彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの言葉に着想を得て制作された。

【吉田孝行プロフィール】
1972年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。映画美学校に通い、様々な映像作品の制作に携わる。山形国際ドキュメンタリー映画祭2011でヤマガタ映画批評ワークショップに参加。東京フィルメックス2014でアジアの映画人材育成事業「タレンツ・トーキョー」のコーディネーターを担当。日本で唯一のドキュメンタリー専門誌「neoneo」の編集に携わる。共著に『クリス・マルケル―遊動と闘争のシネアスト』『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』など。新作『ぽんぽこマウンテン』が、映画祭、ヴィデオアート祭、展覧会など、世界16か国、19の国際フェスティバルに選出されている。

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【関連記事1】http://www.cinematoday.jp/page/A0005386
【関連記事2】https://jp.sputniknews.com/opinion/201611042976112/

【推薦の言葉】
「ぽんぽこマウンテン」という遊具で戯れる小さな少年少女が描かれる作品の後半で、背後に樹々を配したロング・ショットの美しさといったら。しかし、一見単純と見える曲線の美を生み出しているのは、それまでのショットの的確な配列であり、とりわけ静止画の導入が、時間の推移のなかで無償の官能性を呼び込んでもいる。時間と無時間が葛藤し、映画の原理に思いを巡らせる、極めて野心的な小品だと感嘆した。———筒井武文(映画監督・東京藝術大学教授)

【推薦の言葉】
ドキュメンタリーマガジンneoneo の出身者から、新しい才能が登場した。ドキュメンタリーとビデオアートの境を易々と越境し、ラヴ・ディアスを思わせる端正な白黒ショットのなかに、鑑賞者を過去の記憶へといざなう瞑想的な作品だ。———金子遊(映像作家・批評家)

【推薦の言葉】
吉田孝行による『ぽんぽこマウンテン』で真に驚かされるのは、冒頭の長めの引きのショットに続いて挿入される、靴を映す幾つかの短いショット(静止画)である。子どもたちの歓声が背景に聞こえ、いかにも子どもの靴らしく、踵で踏まれて後部の形状が崩れたスニーカーが多い。長らくそこに放置されてきたかのように砂地に馴染む古ぼけた靴、丁寧に揃えられ、開口部に靴下がねじ込められた靴、無造作に脱ぎ捨てられ、辺りに散乱する何対かの靴……。大げさを承知で告白すると、それらは僕に《ヴァン・ゴッホのよく知られた靴の絵》を想起させた。あるいは、それを重要な発想源としたマルティン・ハイデガーの『芸術作品の根源』を……。ハイデガーはその絵画に道具の「真理」を見出す。「物」と「作品」のあいだに位置づけられるべき「道具」が「道具」たる由縁(道具存在=道具的なもの)は、何かに役立つこと、すなわち「有用性」に向けて製造された点にあると言っていいが、他方で道具の「真理」に行き着くためには剥き出しの「有用性」から解放されねばならない(有用性が消えるのではない。それでは道具ではなくなってしまう)。そこで「道具」の(「有用性」よりさらに)「本質的な存在」としてハイデガーがやや唐突に持ち出す「信頼性」なる謎めいた概念について、ほんの10分足らずの簡潔さを帯びた吉田作品に即して記述を試みると以下のようになるだろう。まず子どもらは何かから解放され、具体的には靴(有用性)から解放される。だが、そうした子どもらの無邪気さへの讃歌に終わらないがゆえに、本作は素晴らしい。子どもら(人間=有用性の要求)から解放された道具(靴)の喜びや安らぎとでも呼ぶべき稀有なもの、つまりは「信頼性」を、しかもいかにもさり気なく画面上に定着させることに吉田は成功するのだ。一時の遊戯を終えて下山すれば靴たちが自分を待ち受けるであろうことを子どもらは信頼し、逆に山のふもとに一時的に放置された靴たちもまた忘れ去られたわけではないと子どもらを信頼する。吉田孝行の「作品」は、ハイデガーにとってのゴッホの絵画のように、道具なるものの「真理」(道具存在)へと僕らを導き遭遇せしめるのだ。———北小路隆志(映画批評家・京都造形芸術大学教授)

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吉田孝行

ゲストブロガー

吉田孝行

“映像作家。これまで世界30か国以上の映画祭や展覧会で作品を発表している。近作に『タッチストーン』『エイジ・オブ・ブライト』『ある日のアルテ』『ある日のモエレ』など。共著に『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』など。”


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