「保養」って…以前は、「会社の保養施設」とか、「保養所」って言ったたり聞いたりしていたけど、2011年3月11日の東京電力の福島原発の事故以来、「保養」って聞くと、放射能汚染のある地域に暮らす人が、一定期間、別の場所で過ごすことだけを意味するようになってしまった(保養の意味が限定的になってしまった)気がする。
昔は、保養に行って、心と体をリフレッシュさせることは、夏休みなどの長期休暇の定番行事でもあって、「ちょっと軽井沢に保養に…」とか、言ってませんでしたっけ?
我が家は軽井沢とは無縁でしたが、近場の三浦海岸の激安「保養所」に毎年、泊まりがけて行ってました。
そんな保養に関するもろもろを私に考えさせたのが、映画『へっついの家』。
新潟県佐渡島にある古民家「へっついの家」での2013年の夏の保養の記録映画です。
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『むすんでひらく へっついの家』
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海、山、川遊びのできる「へっついの家」にやってきた福島からの子どもたちは、これまで我慢していた海水浴や土いじりを思いっきり楽しみ、まき割り、風呂焚き、土壁づくりなど、暮らしに必要なあれこれを分担してやっていく。そのことを通じて、自らの手で暮らしを作り出していく、ということを体験する。
物質的に豊かになった現在、必要なものはお金をだして買えばいい時代、へっついの家での暮らしは、そうではない。
「便利さ」をあえて横におき、自分たちの頭と体をつかって、暮らしをつくっていくのである。
風呂焚きには、薪が必要だ。
こんなところから、人間は、自然の恩恵をいただきながら暮らしているのだということを、(無意識にせよ)子どもたちは感じてとっていく。
福島から来た子どもたちは、佐渡の地元の子どもたちと一緒に、遊んだり、家事をしたりして過ごす。
新しい体験の連続は、それが家事であっても、「面白い」体験になっているようだ。
「へっついの家」では、単に楽しい時間を共有するだけでなく、原発事故について思っていることを語り合う場をもうけている。
これまでの「楽しい」時間の映像は、ここで少し、雰囲気が変わる。
映画のナレーションは「現実を思い知らされる瞬間」と説明する。
基本的に「楽しい」ことの方が多い保養先に、現実社会を振り返る機会があることに、私は「希望」を感じた。
なぜなら、人前で「語る」(言語にしてみる)ことは、漠然とした不安や悩みが何であるのか、具体化させることだから。
現実社会のなにが、その人の不安や困ったことなのか。
言語化することによって、人は、よりはっきりと、考えていることを「意識」することができる。
不安や悩みが明確になったとき、初めて、その人は、自分を不安にさせている原因に目をむけることができるのではないか。
ここまで考えた先に、きっと、理想とする未来像――どんな未来になってほしいのか。どんな未来ををつくっていきたいのかが出てくるのだと思う。
それから、この映画には、保養にかかわるスタッフ同士の葛藤、個々のぶつかり合いも記録されている。
個々のぶつかりあい――という人間関係を、福島に置いてみれば、被曝への考え方の違いなどから生じている、あっち側とこっち側、あの人たちと私たち、といった対立の人間関係に重ならないだろうか。
映画「へっついの家」では、一度はこじれた関係が、やり直しの機会を得て、再び、共に歩き始める。その歩き方も、歩幅もそれぞれ違うのだけれども、それぞれに無理のないペースで、再び歩き始める。
保養に係る人たちの心のあり方にもカメラを向けた点に、
へっついの家の風通しの良さを感じた。
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むすんでひらく へっついの家 facebook
https://ja-jp.facebook.com/sado.hettsuinoie
決定している上映スケジュール
●3月6日 東京・第四回江古田映画祭
http://furuto.art.coocan.jp
●3月15日 京都・キッチンなごみにて上映
https://ja-jp.facebook.com/events/1583129271940077
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画像は、ほっとはうす(水俣)で行われた映画上映会チラシより。