2012-08-20

『夏の祈り』 このエントリーを含むはてなブックマーク 

この映画はどうして見に行ったのかというと、
予告編を見て、
原爆で被爆した体験を持つお年寄りたちが、
老人ホームで、その体験をくり返し劇にして演じている、という異様さに魅かれたからだった。

「異様」という言葉を使うと、
おそらく、お年寄りたちに対して失礼だの、被爆者の真摯な思いをなんと心得る、
だのといった批判が飛んできそうな気もするけれども、
異様だと思いますよ、私は。
だって、なんでつらい思いをわざわざ追体験しなければならないんですか。
しかもそれを劇にして、舞台で観客に向かって見せているんだから。

でも、このお年寄りたちをスクリーンで見て私が改めて思ったのは、
人にはつらい体験をした後に見せる反応が、二とおりあるということだった。
ひとつは、つらい思いを記憶の底に封じ込め、人目にもつかないようにすること。
もうひとつは、つらい思いをさらけ出して、かえって人に見せつけようとすること。
このお年寄りたちはもちろんその後者のほうで、
そこには、この悲劇を後世の者たちに伝えていかなければという使命感よりもなによりも、
まず、自分がそうしなければ気がすまない、という衝動があるんだと思う。

そう思って見ていたら、制作した監督自身もインタビューで似たようなことを語っていた。

(前略)
死が身近にある入居者にとって、自らの心身に深く刻まれた被爆の記憶を発露することなく、自らの体内に蓄積したまま死を迎えるということは我慢ならないことなのだ。入居者にとって被爆劇はたかが演劇では済まない。自らのアイデンティティの再検証であると同時に1945年に受けた被爆の記憶を発露せずには死ねない。それどころか命がけで次の世代に伝えなくてはという強い意志を帯びたものとなる。
(後略)
webDICEの坂口香津美監督インタビューから。
http://www.webdice.jp/dice/detail/3601/

被爆者であることがアイデンティティになってしまったというのは不幸なことだが、
そうであるのなら、それをむしろ訴えて生きていきたい。
そんな、お年寄りたちの意気込みが劇を演じることに感じられる。

で、この被爆劇というのがかなりおどろおどろしかった。
赤い炎を描いた書き割りを背景に、
杖をついた老人や、車椅子の老人が、介助者の助けを借りながら舞台を横切って演技する。
見に来た小・中学生、高校生たちはそれを見て涙するけれど、
私からすればこれはどれかと言うとお化け屋敷のような怖さだった。
作り物のセットの中で演じられるからこそ呼び覚まされる恐怖感のようなもの。
できるならば、この演劇シーンをもっと見たかったし、生で見てみたいとも思う。

ただ、この老人ホームはカソリック信者たちの運営によるものであって、
ここでの祈りは、同じ、悲劇がくり返されないように、という祈りであっても、
日本人の心の底に根づいている祖霊を介した祈りとはちょっと質が違うので、
キリスト教が好きでなかったり、敬遠する気持ちのある人には映画自体がしっくり来ないか
も知れない。
それでも、二度と戦争を起こしてはならない、という思いはいっしょなのだ。

それから、この映画にはもうひとつ見所があって、
それを見ると、この映画が訴えようとしているのは、
原爆という過去に落とされたものによる傷跡とどう向き合うか、だけではないことがよくわ
かる。
放射能汚染という実態、
60年以上経てもなお、放射線を発し続けている被爆者の臓器を見れば、
福島の原発事故があった後もなお、
核利用は人類の発展のため、経済の維持のために必要なんだ、と主張する人々の声が、
どれほどうわべだけのものであるかがよくわかるだろう。

『夏の祈り』の上映は、UPLINKで今月24日まで、改め31日までだそうです。

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ところで、8月のReiko.AのTabelaでのタロットスケジュールはこちらです。

http://www.webdice.jp/diary/detail/7404/

キーワード:

夏の祈り


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