福島第一原発で作業にあたる人々の状況がますます見えにくくなり、見えなくなった分だけ日に日に悪化しているのではないか。
自らの健康を差し出したこの人たちは損害賠償の対象になっているのだろうか。1カ月余の作業でいったいどのぐらいの人が限界線量を超えてしまっただろう。たとえ何百人いたところで、作業の終わりが見えない以上、特に技術者については遠からず足りなくなるのではないか。早急に聞き取り調査が必要。
ものごとの進行が早いのですぐに情報が古くなる。でも、かれらの生の声はまだ十分に聞こえていないと思うので、ここに転記しておきます。
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2011年03月31日
フクシマ・フィフティの顔と声ーー恐怖と背中合わせの勇気
ものすごく長いので全部は転記しません。全文は以下のページでお読みください。
http://newsfromsw19.seesaa.net/article/194208198.html
英国在住の友人、神宮ぴーまんさん(仮名、当然ですね)が、2011年3月27日付けテレグラフ紙日曜版に掲載された「フクシマ・フィフティ(福島の50人)」のインタビュー記事を全訳して自身のブログ「エゲレスよろずNews@UK」にアップしてくださったので、本人の許可を得て転載する。当該記事を読む前に、まず日本ではかれらのことがどのように報じられていたかを記録として残しておく。
外国の記者に話すときと、日本の記者やテレビカメラの前で話すときは、当然のことながら使う言葉も話す内容も変わってくるだろう。しかし、それは聞く側の態度にも大きく影響されるのではないかと両者を読み比べて思った。
2011年4月8日に新聞記事2本とネットメディア記事1本を追加。
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見えない「敵」、暗闇、怒声…
ハイパーレスキュー隊員が見た放水の現場
2011.3.22 20:34 MSN産経ニュース
歴戦の“勇士”たちは冷静に、前向きに「災害」へ立ち向かった。福島第1原発事故で、放射能漏れを起こす3号機への放水活動に従事した東京消防庁ハイパーレスキュー隊の福留一彦消防司令補(44)と國澤健一消防司令補(41)が22日、産経新聞の単独取材に応じた。「再び指令が下れば迷わず飛び込む」。2人は険しい表情で現場の惨状を振り返りながらも、そう力を込めた。(中村昌史)
続きは http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110322/dst11032220410050-n1.htm
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日本の津波:フクシマ・フィフティ初インタビュー
独占:フクシマ・フィフティが語った
日本の核危機に取り組む緊急チーム「フクシマ・フィフティ」の
メンバーが語る危険と恐怖
2011年3月27日 サンデイ・テレグラフ [*編註1]
アンドリュー・ギリガン、ロバート・メンディック [*編註2]
(写真キャプション)
顔写真は http://newsfromsw19.seesaa.net/article/194208198.html
Akira Tamura (たむらあきら氏)
予想と異なり順調に進行しておらず,それが懸念となっています。
Nobuhide Suzuki (すずきのぶひで氏)
隊員達は不安になり,現場は,かなり緊迫しています。重責が肩にのしかかっていると感じています。
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同じような形の灰色のフード付きジャージの上着と茶色の運動ズボンを着用し、放射線で汚染された私服を透明なビニール袋に入れて持ちながら、彼らは放射線値測定検査のために並んでいる。無精髭がはえ、目の下に黒いくまを作り、どっと疲れた表情で疲労困憊した様子の人も何人かいる。彼らがどこから来て、ほんの数時間後には、またその場所に戻らなければならないと考えれば無理もないことだ。
国家を核危機から救うために自らの命をなげうった必要最小限に絞られたチーム、「福島の50人(フクシマ・フィフティ Fukushima 50)」の驚異的な勇気は世界中をくぎ付けにした。フクシマ・フィフティは実際には数百人いて、シフトとローテーションで勤務しているのだが、彼らはスポットライトの真ん中にいながら、影の英雄として暗闇の中にいた。今までは……。
放射線もれを続ける原子力発電所のそばの廃港に、また、東京郊外の消防署に、サンデイ・テレグラフ紙(The Sunday Telegraph)は彼らを追跡取材した初の新聞となった。彼らは、顔の無い無名のスーパーマン達から、名前も家族もある現実の懼れる人々に変わった。狭く暗い場所でのぞっとするような仕事についての懸念、愛する人々の心配、そして決してあきらめないという決心について語ってくれた。
「そこは真っ暗でした」。東京消防庁ハイパーレスキュー隊から隊員を率い、溶融をはじめた第三号機に赴いたカズヒコ・フクドメ(Kazuhiko Fukudome 福留一彦消防司令補)隊長は語った。「真夜中で、たよれるのは自分達のヘルメットの灯りだけ。原子炉から煙や蒸気が立ち上げっているのが見えました。全ての策が失敗したために、海水をくみあげて冷却するようにと私達が呼び出されたのです。私は東京都に勤めるもので国家公務員でさえありません。政府は切羽詰まっていた。最後の手段だったんでしょう」
ハイパーレスキュー隊の最も危険な任務は夜11時の電話で始まった。「家にいました」。福留氏は語る。「非常に手短な電話でした。隊員を募って福島に行ってくれとだけ言うと電話は切れました。妻を振り返り、『福島に行くことになった』というと、妻はショックを受けた表情をしましたが、すぐに落ち着いた顔をとりもどし、『気をつけてね』と言いました。気丈な様子を示すことが私のためになるとわかっていたからです」
福留氏の頭には「行かない」という考えは全く浮かばなかった。しかし、様々な懸念はあった。「発電所までの道のりは、みな静かでした。みな心配していたのです。私達の任務のほとんどは普段から訓練しているものですが、これは目に見えない敵であり、非常に懸念されたのです」
危惧は現実となった。
午前2時に発電所に到着すると隊員は3組に分かれた。はしご消防車の1台が海岸ぎりぎりまで近づいて必要な水をくみ上げ、もう1台が原子炉建物の2m以内にまで近づいて実際に水をまき、3台目が、その間で1キロ近くに及ぶ黄色いホースをつなぐ役目をはたすことになっていた。
「予想より遥かに悪い事態でした。あたりは瓦礫の山でした」。福留氏は語る。「壊れたコンクリートの塊が散乱し、マンホールの蓋は、何故か全て吹き飛んで口を開けており、道は通れない状況になっていました。海まで運転していってホースを海から出すことは不可能だったので、完全な暗闇の中、ホースを抱えて、1キロ近くの距離を走らなければいけませんでした」
「お互いに『もうちょっとだぞ。続けろ。ホースをもうちょっと遠くまで引っ張れ』等と呼びかけ合いました」。福留氏は言う。「防毒マスクをかぶっていたので、本当に大声を出さなければなりませんでした。お互いに怒鳴り合っていたのです。ホースから水が出て原子炉にかかった時、みな、やった!と叫びながら、こぶしを天に突き上げました。そしてホースが自動的に作動するようになったので、みな少し下がることができました」
防毒マスクは別として、隊員達はバーナード犬のイラストの腕章がついたオレンジ色のユニフォームしか着ていなかった。「放射線が、どれだけのレベルかわかっていなかったのです。みな、今の私と同じ格好をしていました」。「オーバーオールの上に薄手の白い上下、さらにその上にユニフォームのコート、その白い服の他には何も着ていなかったのです」
放射線汚染されたかという質問に「ええ」と答えたが、特に心配しているようには見えなかった。「私達は26時間現場にいましたが、休憩所に戻ると検査を受けました。私の服にも靴下にも放射線汚染が見られ、没収されました。徹底的に洗って、また計測すると完全にクリアにはなっていませんでしたが、最低値は満たしていましたので、もう行ってもよいといわれました」。大丈夫でしょうか、との質問に、氏は笑いながら「はい」と答えた。「いや、これはちょっとおかしく聞こえるかもしれませんが、大丈夫だろうと思ってますよ。着ていた服は影響を受けているでしょうが、体は大丈夫だと思います」
多くのフクシマ・フィフティ隊員達の休憩所となったのは、奇妙な事に、ホノルルでの練習生訓練から、別の意味での「熱い」任地に送られた美しい大型帆船、海王丸だった。原発より数マイル [訳註:1マイルは約1.6キロ] 下がった沿岸にある津波の襲撃を受けた小名浜港では、船が波止場に打ち上げられ,クレーンは20度の角度で曲げられ、電気も水洗設備も止まっていた。しかし、海王丸は比較的被害の少ない桟橋に止められ、自家発電機、水、そして、元々ハワイでの訓練の練習生達のための必需品が積まれていた。
雑然とした中、ビニールで覆われたテーブルに押し寄せ合って座りながら、フクシマ・フィフティチームの数人はカレーを食べていた。数日ぶりの温かい食事だ。デッキの横には、温かいシャワーも本物のシーツをかけた二段ベッドもあった。日本では大人の読み物である漫画や、新聞を置いたリラックス用の部屋もあった。
しかし、誰もリラックスなどしていない。疲労と懸念で押しつぶされそうになった作業員は沈黙したまま座っている。「みなさん,静かです」。海王丸のトヤ・ススム(Susumu Toya 外谷進一等航海士)船長は言う。「食事中はどなたも喋りません」。ビールを勧めてもみな断る。話を聞くと、暗闇、そして恐怖が、何度も何度も出てくるのであった。
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「火曜日に発電所の電力が回復したのは嬉しかった。真っ暗な状況で作業を進めるのは大変で、不安感が非常に強かった」と、白いコンバースのスニーカーを履いた岩手県のタムラ・アキラ(Akira Tamura 田村)氏は言う。「修理をするケーブルの一部は非常に高いところにあり、任務の遂行は想像していたほどスムーズには行かず、それがまた不安要因になった」。田村氏は大げさな表現は避け、そう言うに止めた。
消防士達と同じく、電気技術者は最低限の防備服しか着ていなかった。ガスマスクはつけていたが、全身を覆う裏地に鉛を用いた「(英国で)ノディ・スーツ」と呼ばれる防備服を着ていたのはほんの数人の、現場にほとんど居つめなくてはならなかい上司達だけ。全員の分がなかったからだ。
大多数が着ていたのは、タイベックという不織布でできた使い捨ての白いオーバーオールだけ。英国で、スプレー塗装や、工場などの専門的清掃をする作業員などが着るタイプの服である。この作業服は放射線で汚染された物質が直接体に付くのは防げるが、被曝自体は防げない。どの服も、付いた放射線汚染物質の蓄積を防ぐため、一度着たら廃棄される。発電所には、何百もの廃棄された白い作業服が積み重なっていると作業員は言う。
彼らを守っているのは二つのバッジである。被曝値をチェックし、危険なレベルに達すると警報を発するようになっている。「最も問題な(被曝量の多い)現場にとどまる時間が、それほどは長くないのが救いですが……」。匿名を希望する男性が言った。「問題の現場にずっとい続けるわけでなければ、放射線汚染物質の蓄積は問題ないと聞いています」
作業員達は真実だと言われたことを信じるしかない。しかし、それが真実か否かへの疑惑が日々深まっている。
記者が取材をした日、作業員のうち二人が、第三原子炉の冷却プール付近を歩いている時に放射線で汚染された水が長靴の上から入り込み、被曝による足の熱傷で病院に運ばれた。一緒にいたもうひとりの作業員は長靴が二人よりも長かったので助かった。
その放射線で汚染された水の放射能レベルは驚異的に高く、2~6シーベルト、正常値の1万倍。つまり、最高値の場合、作業員に許されている一年間の被曝量の24倍にもなる。もし、その汚染水が、どんな方法であれ、体内に吸収されていたら、二人の作業員は確実に死亡していたであろう。
しかし、これは、現場にとって非常に深刻な発見である。それは第三原子炉の中心部から汚染水が漏れている事を示すだからだ。日本の菅直人首相は、昨日(3月26日)、原発の状況はいまだ「不安定」だと認め、原発近辺20~30km域からの「自主的避難」を促した。海王丸が停泊している波止場もその域内にある。
原子炉を冷却する戦いの後には、原発の機能をコントロールするために、一秒でも早く電力を回復する任務が中心となる。その戦いの中心に携わっている田村氏は、作業員全員が原発内の地べたに寝ている、と語り始めた。「シフトのようなものはありません。24時間待機し、作業しています」。「今は(この休憩所に)シャワーを浴びるためだけに来ましたが、明日はまた戻ります。被曝値を最小限にとどめるために、1時間現場で働いたら2時間現場を離れるようにしています。この仕事に携わる作業員は当初10人だけでしたが、今は30人に増えたので、(休憩所に来て)食事をする時間ができました。
作業員達は、吹き上げる熱気と放射線を含む蒸気とも戦っている。現場には現在数百人の作業員がいるが、この任務に必要な専門的な配電技術を持っているのは、ごく少数である。そして、原発の外にいる一般市民たちは、現場の状況が改善されているとの印象を抱いているようだが、作業員達自身は(この戦いに)打ち勝ったという自信を持っているようには見えない。
配電作業員隊のリーダー、スズキ・ノブヒデ(Nobuhide Suzuki 鈴木)氏)は語る。「隊員達は非常に不安になっている。現場はかなり緊迫しているが、任務を続けるしかない。みな,世界中が注目している事を知っており、任務遂行への重責が肩にのしかかっていると感じている。また、人々の支援から大きな力をいただいている。応援によって、私達は孤立していないと感じている」
作業員達の話を聞いた人々からのメッセージは届いているかと聞くと、「今、頭の中にあるのは、とにかく続けていけるようにということだけだ」と鈴木氏は答えた。「私達は毎日、戦っています。どうか私達を応援してください」
福島原発の大部分はいまだに放射線汚染がひどく、作業員が一定以上の時間、とどまる事はできない状況にある。現場から離れる2時間と、放射線レベルが急上昇した緊急時、作業員は原発コンビナートの中心にある「避難所」ーー昨年7月に建てられた2階建て耐震設計のビルに退陣する。ここで、作業員達はガスマスクをとり、最小限の食事ーーカップヌードルとボトル飲料水を、地べたに座り、コンクリートの壁によりかかりながら食べる。最も責任の重い役職、原発運営者や所長など重役達を含む50名が、ほぼずっと原発建屋内に寝泊まりしている。再建任務運営本部は未だ汚染の重篤なコントロール室ではなく「緊急業務室」に設けられている。
田村氏達は、原発内の緊張の日々を生々しく語ってくれた。「怖いです。常に恐怖感があります」。32歳の作業員が匿名で語った。「でも、重要な、遂行しなくてはならない任務という意識に駆り立てられて働いています」
作業員達は、地震が原発を切り裂いた直後、主要電力を破壊した時の様子を語ってくれた。ドーンと、ぞっとする爆発音が、当時いた第4原子炉のサプレッション(圧力抑制)室まで届き、アスファルトと建物の横にひびが入り始めた。みな、津波が来て大惨事を引き起こす前に脱出した。状況が悪化する中、3月14日の最初の爆発は、陸上自衛隊中央特殊武器防護隊が2台に分かれて到着した瞬間に起こった。6名の隊員が飛び散るコンクリートの下敷きになり命を落とした。
海王丸の隊員達は、この救助活動任務に就いて以降、誰も家族と面会していない。「一つだけ望みが叶えられるのなら家内と両親に会いたい」と、田村氏は語る。「eメールを送ることができたが、本当に心配していると返信があった」。「家族とコンタクトが取れたのは一度だけ、電話で話しました。子ども達は応援していると言ってくれましたが、家内は傷心のあまり、ほとんど言葉になりませんでした」
田村一家、鈴木一家を始めとする海王丸のチームのほとんどの家庭は、一時的に夫がいないだけではなく、住む家も失ってしまった。家族達は現在、避難所にいる。もし津波で家がさらわれたのでなければ、原発避難地域に家があったためだ。そして、しばらくは、この避難所生活が続くのである。
勇気とは恐れを感じないことではない[*編註3] 。たとえ恐怖を抱いたとしても前進すること。その観点からみて、この男たちは間違いなくたいへん勇敢だ。しかし、自尊心と仕事への責務とを除けば、彼らがその持ち場にとどまる理由はもしかすると他にもあるかもしれない。かれらには他に行くところがないのだ。(了)
[*編註1] サンデイ・テレグラフ
テレグラフ紙はイギリスの高級紙の中では最も発行部数の多い、どちらかと言えば右派に属する硬派の新聞だ(日曜紙だけだとサンデイタイムス紙のほうが少し多い)。読者の年齢層が高く、保守的。イギリスの高級紙は過去数年のあいだにみな衣替えし、いまではみなコンパクトなサイズになっているのにテレグラフだけは昔ながらのブロードシート版(日本の高級紙のサイズ)で発行しており、レイアウトもまったく垢抜けない。
テレグラフの特徴は軍関係に読者が多いこと。そのため、高級紙だが必ずしもターゲットがミドルクラス以上ということもなく、様々な階層の人が読んでいる。軍事情報についてはもっとも信頼できると言われている。公務に就く人間の「無私の行い」への評価が高いのは、軍人が読者であるという点も関係しているかもしれない。
[*編註2} アンドリュー・ギリガン
取材した2人の記者のうちのひとり、アンドリュー・ギリガンは元BBCの記者。イギリスのイラク戦争参戦への決定要因のひとつとなったと言われる「フセインは45分間でイギリスに向けて最終兵器を積んだミサイルを発射できる」という情報が、事実に「色をつけた」不正確な情報だったとBBCラジオで暴露し、ブレア政府(のスピンドクターのアレステア・キャンベル)とBBCのあいだに真偽争いのもとを作った。ここから派生した問題により、ギリガン記者とかれを擁護したグレッグ・ダイクBBC事務総長が責任を取らされて辞任した。
この件に興味のあるかたは以下の論考を読まれると理解が深まると思います。
森田浩之のロンドン通信 2003.8.14「ブレア政権vsBBC」
検索で偶然見つけましたがたいへん興味深い記事です。特に最後の節(BBCの今後)の中の最後の2行。「BBCが政府と対立するような問題を起こしても信用失墜しない理由」として、筆者は以下の2点をあげています。
(1) メディア内にも競争が必要。
(2) 生え抜きだけを大切にする限り、ジャーナリストの独立心は育たない。
ちょうどいまのいま、東電擁護の横並びから脱却のきざしが見え始めた日本のマスメディアに最も欠けているものかも。
それにしても、この論考に登場するジャーナリストたち(ギリガン、ダイク、キャンベル)がいまだ第一線でばりばり活躍していることと、当時ダメダメと言われていた保守党党首IDS(イアン・ダンカン・スミス)がいまでは内閣の一員であることなど、なんとなしに感慨深いです。
[*編註3] 勇気とは恐れを感じないことではない。
ビートニクのアメリカ作家、アンブローズ・レッドムーン(Ambrose Redmoon)の文章のなかで最もよく引用される一説。全文は「Courage is not the absence of fear, but rather the judgement that something else is more important than fear.(勇気とは怖れを感じないことではなく、怖れることより重要な何かがあるという判断だ)」
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記録として映像も取り込んでおきます。
福島第一原発 東京消防庁記者会20日 精鋭部隊139人3隊
http://www.youtube.com/watch?v=AliSwOvAwAs&feature
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マスメディア外のジャーナリストの代表として森住卓さんの記事も取り込んでおきます。
東電作業員へのインタビュー
http://mphoto.sblo.jp/article/43881965.html
2011年03月17日 福島第一原発作業員へのインタビュー
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[参考] 翻訳記事:
福島原発:被ばく量の限界で作業員交代-東電は人員増強を急ぐ
更新日時: 2011/03/18 08:17 JST ブルームバーグ
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追加記事ー2011年4月8日
東電の安全管理に疑問投げかけ 孫請け作業員が証言
2011/03/30 13:39 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011033001000035.html
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追加記事ー2011年4月8日
コラムニュースマガジンT24
[編註:3月13日14日ごろに取材した証言のようです。無断転載ご容赦]
福島原発危機 現場ジャーナリストが伝える「生々しい証言」
ヨーコ 2011年3月31日 11:33 コラムニュースマガジンT24」
http://t24.in/2011/03/post-410.html
冷却しなければならないのに放射能に汚染された水が漏れ、八方塞がりの福島第一原発。いち早く現地に入り、取材活動を続けている記者のヨーコさんが避難者たちの生々しい証言を寄稿してくれた。証言をしてくれた人の中には東電の下請け作業員もいて、その言葉は重い。
ヨーコさんが避難した人々の話を聞いたのは福島第一原発からわずか21.6キロしか離れていない避難場所、川内中学校だ。
証言者A(東電の下請作業員 4号機タービン建屋作業員 50代ぐらい 川内中学校避難所にて)
「原因は津波でも地震でもなんでもない。老朽化が原因だ。
満潮や干潮の時期には、海水が地下二階のフロアーに漏れ出すような、酷い状態だったが、東電はあと10年は運転させると言っていた」
証言者B(東電下請け作業員 (4号機タービン建屋) 38歳 川内中学校避難所にて)
「震災時は地下1階で作業中でした。4号機は運転を停止していて、点検作業中でした。
慌てて逃げたんですが、作業員は4号機に何千人もいます。その人数が一気に出口に殺到し、6つしかないゲートに殺到していたから、4号機を出るまでに3~40分ぐらいかかりました。運転を停止し、点検をしていた4号機までこんなことになるとは......。東電社員はミサイル攻撃にも耐えられると言っていましたし、車の幅ぐらいもあるコンクリート壁が、あちこちにあるので私たちもその言葉を信じていました」
証言者C(東電作業員(詳しい役職は不明) 50代 川中中学校避難所にて)
「どうやってここまで来た?」と筆者に聞くC氏、私がガソリンの予備タンクを2つ用意したことを伝えると......
「そのタンクをいくらで売る? そのタンクを売ってくれたら、こんな所からオレはとっとと逃げ出すよ。
ここの避難所の人間は東電関係者しかおらんよ。この村も周辺一帯の村も、東電しか仕事がないから。事故の原因は老朽化が原因だと、絶対に書いておいてくれ!!」
証言者D(年金生活者 (福島第一原発の元労働者) 70代 川内中学校)
「老朽化した原子炉を建て直すコスト。すなわち廃炉にした原子炉の放射能を何万年も封じ込めるコストと、新しい土地を確保し、新たな原子炉を建てるコスト。ゴミのように移動させて捨てる訳にはいきませんから、建て直すにはこの二つのコストがかかる訳です。
点検と補強を繰り返し、村に金を落とし、住民を潤し、議員を丸め込むコストの方が、圧倒的に安かったということです」
続きは http://t24.in/2011/03/post-410.html
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追加記事ー2011年4月7日
讀賣新聞記事情報 [編註:インタビューに応じているのが広報である点に注意]
原発泊まり込み作業員「厳しいが士気は高い」
(2011年4月3日03時04分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110402-OYT1T00907.htm