前回の日記でも触れて書かなかった、自分の作品の解説を再開する前に、僕がずっと感じ続けてきた、芸術大学その他の教育機関に対する違和感について書こうと思う。
僕は美大のデザイン科出身だけど、今回書く違和感とは別な理由(もっとも関わりはあるだろうけど)で、職業デザイナーにならなかった。それは自分のクリエイティビティを商業ベースに乗せることに対してどうしても気が進まなかったからだ。例えば商品のパッケージデザインをやったとして、その良し悪しは販売数によって測られるのだろうけれども、その物差しで自分のクリエイティビティを断罪されたくなかったんだろうと思う。
まあ、それはそれとして、今回書きたいのは、独創性を学習によって得ることは本当に可能なのかということ。
芸大・美大へ入学するにはデッサンその他の実技試験と学科試験がある。この実技の訓練の為にまずは芸大・美大受験専門の予備校に通う。この訓練がまず一つ目の罠だと思う。それはそこで培われた「上手い/下手」の価値観であらゆるものを判断する癖がつくから。僕はそうでもなかったと思うけど。これは個人的な偏見かもしれないけど、その技術の習得がベースになっているから大学生になってもつくる物がこじんまりして、人物そのものもつまらなくなる。
僕は入学してすぐ、つまらない学校だなと思った。それは上記のようなことを直感的に感じ取ったからじゃないかと思う。
つまり、画一的な技術の習得は、皮肉なことに独創性を貶めるということ。
ちょっと前に読んだ本、エドワード・ルーシー=スミス著の『現代美術の流れ』にもこんな文章があった。
ー1960年代前期におけるイタリア人彫刻家たちが、過去のイタリア美術の伝統を参照し、自らの作品に於いて、洗練された技術を用いてそれらを暗示する手法をとったことに対してー
<問題は、まさに職人肌の腕の冴えそのものが本物の創意の欠如を際立たせてしまう点にある>
なるほど、その通りなのだ。与えられた技術に忠実な人間ほどオリジナルな表現から遠ざかってしまう。
たいがいの人間はそれらの与えられた理論を踏襲するのみで独創性を獲得することはない。むしろその習得と独創性の発揮の関係は、反比例の相関関係にあるんじゃないだろうか。したがって、自身の独創性の欠如を補填する目的で、ある理論を習得しようとするのはほとんど無意味であって、さらには、その欠損部分を負の方向に強化しさえするんじゃないだろうか。それは言ってしまえば教育の欺瞞なのではないか。そう考えると僕が嫌いだった教授陣の退屈さも授業内容の退屈さの理由もよく分かる。
写真は2010年から2011年にかけて制作したシリーズ"Hanged Grammar" のディテール部分。ポルノ小説を左手で(僕の利き手は右)、しかも画面を見ずに書き写した作品。