物語全編に渡り、ワイドレンズが美しく世界を切り取る。
しかし、何だろう?この違和感は。何だろう?この白々しさは。
物語は一見不可解なホームビデオのシークエンスで幕を開けるが、やがてキャメラは古のヨーロッパのひんやりとした空気と現代アメリカの乾いた光線とをワイドレンズで正確に描きわけ、そこに佇む男と女のストーリーを無機質かつ客観的に綴るのだが、やがて観客である我々はあるフラストレーションを抱き始める。
そのワイドレンズでは、どうやっても目の前の恋人を抱き寄せられないのだ。そのレンズは、手が届く距離にいるはずなのに手が届かない、何ともいえぬもどかしさを結像するだけだ。キャメラは時折P.O.V.(主観ショット)を含めた擬人的な動きをするが、キャメラがどんなに愛する人に近づこうとも、視覚的には抱き寄せる距離まで行くことはできない。実際に手は届くの距離なのにも拘らず、そこに映っている“愛しているはずの人”は遠く離れたままなのだ。
これがテレンス・マリックの描く愛なのか。なんという無常観。もはやアントニオーニの「愛の不毛」に匹敵し、ベルイマンの「神の不在」にも通ずる、と言っても過言でないこのやるせなきテーゼが、レンズと光を知り尽くしたマリックならではの映像表現によって結実している。このだだっ広い虚空は無情に満ちており、こんなところでいくら愛を欲してもがいても、照りつける太陽のフレアゴーストにあざむかれ、倦怠し不貞し、心離れ、満たされぬ思いは互いにねじれの位置を保ち続ける。
他方、物語は男と女それぞれのナレーションを基調に進んでいく。フランスではフランス語を操る女の、アメリカではアメリカ人である男のものだが、それぞれの独白はそこに映っている2人のリップシンクを必要としない。よって、2人の関係は永遠にねじれの位置のままなのである。平行でも直角でもなく、そこに交点は存在しない。
だがまたしても、我々はマリックのワイドレンズのマジックによって、遠めから突き放して見るときちんと交点があるように錯覚させられてしまう。この歪曲と弯曲が、この物語を美しくも虚無的なものにしている所以である。 私が感じた違和感と白々しさは、きっとここに起因するのだろう。
更に物語には、要所要所に“水のモンタージュ”が挿入されている。モン・サン・ミッシェルの満ち干る潮、オクラホマの陽光のプール、ひとたびキャメラが水中に入ると、光の屈折により画角は狭まり、さっきまでの嘘の世界が文字通り嘘となる。それまで散々フラストレーションを募らせてきた観客にとっては、水中という不自由な世界の方がよっぽど嘘のない世界に見え、なぜか既視感すら覚えてしまう。
しかし、それもそのはずなのだ。それは既視感などではなく観客は実際に、事前にそれを見せられていた。水中の世界観は、物語冒頭、唐突に始まった2人のホームビデオ映像にそっくりなのである。民生機ならでは距離感、楽しかったあの頃、声のない世界。物語は呼吸と音と広い視野を奪われつつも何かに引き戻されるかのように、肉感的な体温を取り戻す。
言うなれば、水圧と民生機のコーデックによって圧された世界にこそ、2人が求めていて手に入れることができなかった、“愛”が映っていたのだ。マリックは前作「Tree of Life」にも、水を重要なメタファーとして登場させているが、今作の水中は、この大気中のことを逆に“水外”と呼びたくなるほど深淵なものであった。
我々はこの世界、つまり“水外”を拡張しすぎたのだろうか? マリックが向かっている“wonder”とは、もしかするとこの水の中のことなのかもしれない。
世界は水から形成され、命も水から誕生する。神が存在するかはわからないが、水は乾きつつもまだこの地球に張りついている。マリックは、ことによると「この世界に愛なぞ(もともと)存在しないが、それはこの惑星のたった1/3に過ぎない。絶望することはない、我々には帰る場所がある」とでもうそぶいているのではないだろうか。