この映画が長岡の打ち上げ花火を題材にしていることに、実はついこの間まで気づいていなくって、
ちょうど母親が長岡出身で、
私も小さな頃には毎年のように母の里帰りと共に、
夏休みにきょうだいみんなで長岡に泊まりに行って花火を見ていたので、
軽い気持ちで、
「なんか、長岡の花火のことやってる映画があるけど見たい?」
と母を誘って見に行ったのだが、
「言っとくけど、この作家はヘンテコテイストだから」
と自分で説明しておいたのにもかかわらず、
出だしはアングラ演劇のかけ合いのようなテンポで、
長岡の近代史が語られていくのについていくのが大変で、
ようやく、話が進むにつれて全体のテーマが浮き上がってくると、
今度はなにを刺激されたんだかわけもわからないまま、
べしょべしょ頬をぬらし続けて(まあ、自分にとってはこんなのいつものことなんだけど)、
母も横で、時々目頭を押さえていたみたいなので、
しまった、こんなものに連れてきちゃってよかったのかな、と、
映画を見ている時から心配になったけど、
あの空襲シーン、
長岡に焼夷弾の雨が降り注いだ空襲シーンが、
劇中劇であって、しかも大林宣彦一流のシュールな演出でありながらも、
あんなに恐ろしく描かれているのもないんじゃないかと思うぐらいで、
私はあのように悲惨なシーンを想像したことはなかったし、
こんなになにもかも焼き尽くされたんならどうして母の一家は助かったんだ、とふしぎに思ったけれど、
映画を見終わってから尋ねてみたら、
天照大神のお告げを受けやすかったおばあさん(母の母)が危険を察して、
その頃は毎晩子供たちを町からはずれた所に預けていたので、難を逃れられたのだそうだ。
だから、
「友だちもたくさん亡くなったのよ」
だそうで、
家は全焼し、残ったのは蔵だけだったという。
そう言われてみればそんな話は、
小学生の時に長岡を訪ねるたびに、おばあさんや母のお姉さんに当たるおばさんからよく聞かされたような気もするけれど、
長い年月の中でついつい忘れていた。
語り伝えたい物語はくり返し、くり返し、語らないとだめなのかも知れない。
で、映画のほうはそのような長岡市民の歴史だけではなく、
子を生む決心のつかない長崎の被爆二世の女性から、
かつての空襲で乳飲み子を失って、紙芝居で語り聞かせを続けている女性、
時のかなたからやってきた、幼くして死んだ女の子の魂、
南相馬市から放射能汚染を逃れて長岡にやってきた男の子、などが入り混じって、
一見、離れたところにいるように見える人たちが、
ほんとうはどこか深いところでみなつながっているということ、
そして、ただ命を紡いでゆくという本来なら素朴であたりまえなはずのことが、
原爆のせいで、原発のせいで、そして戦争のせいで、
むずかしくなってしまっているということを、くり返し訴えかけてくる。
だけどまだ遅くない、今から思い直せば、次の戦争が起きるまでにはまだ間に合うんだ、と。
そのためには声を上げ、メッセージを発し続けることが大切なんだ、と。
私は自分が無邪気に見上げていた長岡の花火に、
そのような空襲で亡くなった人たちへの慰霊の意味がこめられていることは知らなかった。
そして、最近の中越地震、東日本大震災、原発事故、といった天災・人災を経て、
ますます打ち上げ花火にこめられる人々の思いが大きくふくれ上がっていることも知らなかった。
空に咲く大輪の花にこめられた人々の復興への祈りと、命をつないでいくことへの希望。
映像と、音と、言葉とで、それぞれのたくさんの思いがスクリーンから伝わってくる。
見終わった後の母の、
「私は当事者だからねえ」と言った言葉に一瞬ひやりともしたけれど、
悲しい思い出に引き戻されるよりも、
懐かしいという思いのほうが最後には勝ったようだった。
そうだよ、懐かしいよ。
たまにしか訪ねたことのない長岡が、私の中にも思いのほか生きているようで、自分にとっ
てもとても懐かしい。
それは誰の心にもある懐かしさ。
家族といっしょに見上げる花火、それが私たちを知らないうちにつないでいたんだね。
誰かといっしょにただ見上げるだけの花火、それが人々をつないでいるんだね。
これを書きながらも、私はまだいわれのない涙がにじんできてしかたがないのだけど、
久しぶりに長岡の花火をまた見に行きたくなったのだった。
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