一人の人をよってたかっていやな目にあわせたり、
暴力をふるったりするのが卑劣な行為であるのは、
野田首相のメッセージを待つまでもなくあたりまえのことだけど、
それが恥ずかしい行為であると感じるかどうかについては、
人によってずいぶんとばらつきがあるのかも知れない。
まあ私自身はね、
すでに幼稚園児の時に、
ある子へのいじめに一瞬だけ加わったことによって、
同じ組の子に裏庭に呼び出され、
「れいこちゃん、
さっきなんで〇〇ちゃんたちといっしょに△△子ちゃんのこといじめたの?」
と問い詰められたことがあって、
いじめに加担したことは人生でそれ1回きりしかないんだけどね。
その時から強烈な自制心が芽生えたらしく、
人をいじめるということができない
(ただ、後に1度きり、ある理由から1対1の関係でいじめる側に回ったことならある)。
元々、人をいじめたりするのが好きではないたちなのに、
いじめっこたちへの恐怖心に負けて不本意なことをしてしまったのを、
おそらく恥と感じたのだろう。
そして、その恥を感じさせてくれたのは、同い年の同園生であったというわけだ
(確か、「怖かったから」とか情けないことを答えてあきれ顔をされた)。
今、いじめに回る側の子供たちには、
そのような恥を感じさせてくれる場があるのだろうか。
親や、教師や、年長者に注意される前に、
横のつながりで恥を感じさせてくれる関係があるのだろうか。
誰かが誰かをいじめ始めたのに気づいたら、
すぐにそれに同調して自分がいじめられる側に回らないようにしたり、
自分が次の標的にならないように口出しもしないでいる以上は、
自分たちで物事を正していくことなんかおそらくできないだろう。
そして、同級生たちから侮蔑や非難を受けるどころか、
恐れの視線を浴びせられるだけのいじめる側の子たちは、
それを、自分たちの力によるものと錯覚するのかも知れない。
恥なんて概念は育たないのかも知れない。
ただ、強者の立場でいられさえすればいい、と思うようになるのかも。
今、一番目についているのは、
もはやいじめと言えるレベルには留まらず、
犯罪化してしまった暴力行為だけれども、
そこまで至る前に、かつてならそれぞれがいじめに出合いながら学んでゆく豊かな時間が持てたはずなんだ。
その時間が人をいじめることの恥ずかしさも教えてくれることができただろう。
でも、今はほとんどの人がその時間を持つことができなくなってしまった。
あまりにいじめが度を越したものになってしまい、
もはや、いじめられる子の救命措置を急ぐことのほうが先になってしまった。
けれどまずその時間から取り戻していかないと、きっとこのいじめの悪質化は終わらないだ
ろう。
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