2011年04月23日
http://newsfromsw19.seesaa.net/article/195447855.html?1303574778
2003年11月のはじめごろ、ブッシュ大統領のロンドン訪問にあわせた大規模反戦デモの前日のことだ。ロンドンの議会前広場での抗議行動中に、顔見知りの反戦活動家がひとりの青年を紹介してくれた。「反核活動家のイアンだ」。
イアンと呼ばれた背の高い青年は人なつこい笑顔で握手を求めながら、「日本人だって?」と話しかけてきた。ジャーナリストの森住卓さんが撮影したイラクの子どもたちの写真展示を通して、イラク戦争と劣化ウラン兵器に反対する活動を行っているとわたしが自己紹介すると、イアンは、劣化ウラン兵器によって発生した放射性物質でイラクの人々、とりわけ子どもたちがひどく苦しめられていることを知っていると言った。
そして、日本の人はヒロシマの経験があるから放射能の悪影響に敏感だねと続け、「放射能がどんなにひどいことをするか、ぼくもよく知ってるよ」と言いながら、かぶっていたキャップをとった。
<チェルノブイリの子どもたち>から
<フクシマの子どもたち>へ
イアンの頭は、火傷を負ったばかりように広い範囲にあちこち赤剥けていて、実際には乾いていたのかもしれないが、濡れたようにてらてらしていた。そして、そのただれた赤い皮膚のあいだに、金色か薄い茶色の髪の束が少しずつ、ここが頭であることの申しわけのように生え残っていた。赤剥けた皮膚は頭から首筋のほうへ、その下へずっと続いているようだった。
「どうしたの?」と尋ねると、「チェルノブイリの灰をかぶったんだ」と答え、外したときと同じぐらい素早く帽子をかぶってしまった。
チェルノブイリ原子力発電所の4号炉が爆発した翌日、まだその爆発が隠蔽されていた4月27日日曜日の昼間、イアンは自宅の近所の海岸にいた。「ビーチで遊んでいたんだ」。ひとりではなく、友達か家族といっしょで、他にも大勢の人がいたらしい。「なにしろいい天気だったそうだから、その日は」
放射性物質の付着したホコリや灰が北西の風にのってイギリスの東海岸まで到達し、雨粒とともに地上に降り注いだ結果、放牧されていた羊が放射能に汚染された牧草を食べて被ばくし、食用に適さなくなったといった話は聞いていた。しかし、チェルノブイリの灰で被ばくした人に遭うのはイアンが初めてだった。放射性物質を直にかぶっただけでなく、海で泳ぎもしていたので口から体内にも取り入れた可能性があり、その影響か、ひどく体が弱いという。
スウェーデンの原子力発電所にある放射線管理区域外の敷地で、そこにあるはずのない放射性物質が検出されて放射能漏れが疑われたのは、イアンが海岸で遊んでいた翌日だ。世界をかけめぐった最初の報道では、放射能漏れをおこしたのは放射性物質の見つかった当の原子力発電所だとされていたが、やがて、どうやら出所はソ連圏だということになり、同じ日の夜(欧州時間)になって、ソ連の通信社がチェルノブイリ原子力発電所(現ウクライナ共和国)での2日前の大爆発を報じた。
その大爆発を知っていたら、どんなに天気が良くても子どもを海岸になどやらなかったろうに、外でなど遊ばせなかったろうにと、イアンの母親は悔やんでも悔やみきれず、何度も泣いたろう。
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福島第一原発の事故からまもなく、ロイターが報じた「チェルノブイリ・ベイビー」の証言に登場するのは、イアンよりさらに若い世代の女の子だ。イアンが長男とすれば、ここに登場するナスターシャはその妹にあたり、チェルノブイリで爆発が起きたときはまだ生まれていなかった。それどころか胎児でさえなく、まだ母親の体の中の卵子のひとつに過ぎなかった。
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「チェルノブイリ・ベイビー」の証言:
放射性物質が降った土地に生きるということ
'Chernobyl Baby' Explains Life In A Fallout Zone
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2011年3月17日ロイター
http://www.huffingtonpost.com/2011/03/17/chernobyl-japan-nuclear-crisis_n_837213.html
ナスターシャ・アストラシェウスカヤは2010年12月、特派員としてロイターの一員になった。彼女は1989年8月31日、ベラルーシのモギリョフで生まれた。500キロ離れたウクライナのチェルノブイリで起きた原子力大事故の3年後だった。
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ナスターシャ・アストラシェウスカヤの証言
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モスクワ(ロイター)――チェルノブイリが爆発したとき、私はまだ生まれてもいませんでした。にもかかわらず、私の子ども時代は命にかかわる負の遺産につきまとわれていました。
同じ学校の女の子の一人は片手の指が6本ありました。 私の甲状腺はいつも肥大していますし、私も家族もずっとガンを恐れていくことになるでしょう。
津波に襲われた福島原子炉の暗い影の中で生活し、この先の影響を心配されている日本の方々が、そんな運命にならないようにと願っています。
私は1989年8月31日、チェルノブイリから500キロ離れたベラルーシのモギリョフで生まれました。モギリョフは、1986年4月に起きたウクライナのチェルノブイリ原発の火事の後、ベラルーシに向かって飛ばされた放射性の雲の中心にありました。
私は(その時)起きたことを直接経験していませんが、両親がその話をするのを何度も聞きました。
そのスモッグが何日も漂っていたとき、何が起きていたか、両親は知りませんでした。公の説明は何もありませんでした。テレビでもラジオでも、役人の口からも一言もありませんでした。
本当のことを知っていた人たちは、自分の子どもに家の中にいるように指示しました。でも一般人のあいだにパニックを起こしたくなかった。一般人は自分の吸っている空気がどんなものかすら気づかずに、汚染された通りを歩いていました。
チェルノブイリの爆発が隠しおおせるものではないとソ連政府が悟るまでに数日かかりました。大量の放射性物質が放出されたと外の世界では知っていたのに。
危険に気づくと、両親はすぐ決断しなくてはなりませ んでした。母と兄はモスクワへ行くことにしました。モギリョフより放射能の影響が少なかったのです。
父はモギリョフに残って仕事を続けることにしまし た。
息をするのも危険でしたが、家族にはお金が要りました。
「あなたのお兄ちゃんはそのとき五歳だった」と母は話してくれました。「連れ出さなくてはならなかったの」
荷物の支度をしてモスクワに向かい、母方の伯父の家に滞在しました。「五カ月いたの」と母は言いました。「でもすぐには何も変わらないとわかって、お父さんのところに戻ったの」
出生率低下
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移住するのは無理だったんです。
私はその3年後に生まれました。
出生率は急激に下がり始めていました。事故のあとに生まれた赤ちゃんにいろいろな異常があって、みんな子どもを持とうとしなくなったんです。私と一緒に学校に行っていた女の子は腕に異常がありました。
こわかったけれど、慣れました。
事故のあと、ベラルーシで暮らしていたほとんどの人がそうでしたが、私の甲状腺はふつうよりずっと肥大していました。いつも甲状腺ガンになるのを恐れて暮らしていました。
ベラルーシはチェルノブイリから出た放射性降下物でもっとも汚染された国で、汚染が完全に取り除かれた地域はまだほとんどありません。
水のせいで歯が悪くなりました。放射能レベルが他より低い場所があって、きのこやベリーを摘むことができました。
広大な森の地域が鉄条網で立ち入り禁止にされていて、 「放射能危険」という黄色の標識があちこちにあったのを覚えています。
私の世代の、特にウクライナとの国境に近い地域に住む人は、「チェルノブイリの子どもたち」として知られるようになりました。
気の毒に思った外国の人たちが団体を創設して、汚染地域の子どもの健康状態が改善するように手助けしてくれました
毎夏何週間か、歯の治療を受けたり、健康にいい食べ 物を食べたり、新鮮な空気で肺をきれいにしたりできるよう、ベラルーシから欧米に連れて行ってもらいました。
今日、爆発からほぼ25年経って生まれる子どもも、やはり脅かされています。その子どもも孫もです。放射能はそんなにすぐには消えないからです。
子どものころに放射能にさらされたので、その影響はずっと体に残るし、子どもがどこで生まれても、たぶんその子にも伝わるとわかっています。
でも今できることは何もありません。立ち入り禁止の森や野原に入らないようにするだけです。(ロバート・ウッドワード編集)
[翻訳:荒井雅子(TUP)]
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もう一度、イアンの話をしよう。イアンは反核活動家として、核兵器に反対する行動だけでなく、核再処理施設や原子力発電所での抗議行動にも参加してきたそうだ。
施設の前で抗議行動をしていると警備員が出てくるだろう。そうすると帽子を取って頭を見せてやるんだ。これが放射能のやったことだって。
イアンには核に反対するだれにも負けない動機がある。
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かれの話を聞いて考えた。
日本人はしばしば「日本は唯一の被ばく国だ」と言う。実際には、核実験場をはじめ世界の至るところに被ばく地はあるが、とりあえずその点はおいておくとして。「唯一の被ばく国である日本は核兵器の使用にも所持にも反対である」と言うが、そこで問題にされる「日本の被ばく」とは、どうやら「爆発」を伴う兵器による直接的な被ばく、わけても「体外被曝」にほぼ限るようだ。
原爆の破壊力は確かに凄まじい。中規模の二つの地方都市が一瞬にして死体と瓦礫の山に変わった。爆発を生き残った人の多くも、爆発によって放出された放射能によって急性放射線障害を負い、数日から数ヶ月を苦しみ抜いて亡くなった。これらの被害は原爆の空間的な破壊力と定義することができるだろう。
核兵器の必要性を説く人たちが問題にするのも、核兵器のこの空間的破壊力だ。一瞬で大量の破壊をもたらすことによって敵に脅威を与え、それ以上の戦争の継続を断念させる効果があると。そして、この恐怖感を互いに煽ることで、冷戦は不思議に均衡していた。
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しかし、原爆の恐ろしさの本質は、実は空間的なものより時間的な破壊力にある。
原爆投下の翌日、数日後、1週間後、けが人の救助や家族を捜して広島や長崎の市内に入った人々が、急性放射線障害と同じ症状でばたばたと亡くなった。これはいまでは内部被ばくが原因とされている。
また、原爆を生き延びた人や残留放射能によって被ばくした人々は、数年後、数十年後に、複合的なガンに冒されることがしばしばある。ガンにならないまでも、疲れやすくて集中力が続かないなど重度の倦怠感が原因で仕事に就けなかったり、一見怠けているようにしか見えないことから「ブラブラ病」などと揶揄され、苦しい生涯を送った人も多いと聞く。
仮に被ばくした本人は比較的健康に人生を全うすることができたとしても、次の世代、また次の世代に身体的な異状が現れることもある。そして、この情報が歪められて広がった結果、心ない差別に苦しめられてさえいる。ガンを患った子どもや孫が、自分より先に死ぬ不幸にもしばしば立ち会う。
こうした原爆の時間的な破壊力に注目すると、爆発を伴うかどうかよりも、放射能の拡散こそが問題だと気づく。
放射性物質がいったん環境に放出されてしまえば、その物質が放射能を出し切って別の無害な物資に変わるまで、時には何万年も何十万年も放射線を出し続け、そのあいだずっと危険は去らない。放射能は閉じ込めておくべきものという視点に立てば、放射能を閉じ込める器が核兵器の形をしているかどうかは、二次的な意味しかもたなくなる。
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イアンがそうであるように、世界の反核活動家はしばしば原子力発電(核発電)にも反対の立場にたつ。チェルノブイリ原子力発電所の爆発以降、その傾向は顕著で、「NO NUKES」と言えば、それは核兵器と核発電の両方に反対する意見表明になる。
しかし、日本では、反核兵器団体が原子力発電に反対する姿を見ることはない。完全に分業化されている。核兵器だけに反倒する団体が、世代交代に失敗しながら年老いていくあいだに、50を超える原子炉が地震列島の上に並んでしまった。
核兵器と原子炉が同じものでないように、核兵器の使用と原子力発電所の事故は同じものではないとの主張は、大量の放射能の環境への放出という点からみれば、あまり有効なようにはみえない。
「日本は唯一の被ばく国である」という被害者視点のお題目が、フクシマ以降も有効かどうかわたしにはわからない。
ただ、数十年前に爆発してしまった核爆弾の被害を防ぐことはできないが、いま日本の核施設から拡散される放射性物質によって被ばくする被害者の数を、出来る限り低く抑えることは可能だ。
福島の子どもたちに対して文部科学省が出した「児童の放射線許容量を年間20ミリシーベルトとする安全基準」を、いますぐ変更前の基準に戻すべきだ。そして、そのような高レベルの基準にしなければ外遊びもままならないような地域の子どもたちは、学校まるごと疎開させたらいい。
少子化によって教室の余っている学校は全国に山ほどあるはずだ。それらの教室に担任ごと子どもたちを疎開させればいいのではないか。クラスメイトや兄弟姉妹が同じ地域にいるなら子どもたちもそれほど寂しさを感じなくてすむだろう。
いまの緊急事態が収束し、放射性物質の除去が行われるまでの1年か2年の措置であるし、子どもたちは同じ学校に通う子どものある家にホームステイさせてもらったらどうだろう。何か支援したいけれどどうしたらいいかわからない、子どもの世話をする支援ならやってみたい、力になりたいと申し出る人は多いと思う。
教室の整備や子どもの移動にかかる費用は税金をあててもらっていいのではないか。また、ホームステイ先にも食費などの補填があるともっといいと思う。
子どもたちが安全なところで暮らしているとわかっていれば、被災地に残る親たちも安心して生活の建て直しに集中できるだろう。被災した子どもたちが教室にいれば、わたしたちも福島の被害を身近に感じ続けていられるはずだ。
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福島第一原発の事故がチェルノブイリと同じレベル7に引き上げられた日、BBC24のニューススタジオでキャスターがふたりの専門家に話を聞いていた。
ひとりの専門家が「これは日本が隠し事をやめるという意思表示でしょう。共産圏じゃないんですから、もっと情報をオープンにして解決策を広く求めるようになるのでは」といった内容の楽観的な展望を述べると、もう一方の専門家は別の立場から意見を述べた。「レベル7になったということで、避難地域が拡大されるはずですが、共産圏じゃないので強制移住というわけにもいかず、いっそう混乱するかもしれません」と。
政府が子どもの疎開を決断すれば、福島の人たちは不満と述べながらもほっとするのではないだろうか。たいへんなのはわかっているが、いま限られた時間を心配するほうが、将来にわたって心配し続けるよりずっといいはずだ。
「フクシマの子どもたち」と呼ばれる世代を作り出してはならないと、「チェルノブイリの子どもたち」が身をもって教えてくれている。