住田雅清、42歳。重度の脳性麻痺患者で、訪問ヘルパーの助けを借りながら自活している。
主人公の住田雅清を演じるのは、住田雅清本人である。年齢や基本的な設定も実際のものである。しかし、これはドキュメンタリーではなく、映画なのだ。それもクライムやスプラッタに分類されるような。
障害者をテーマにした映像といえば、ドキュメンタリーか感動的なストーリーの映画と相場が決まっていて、映画の場合は障害者の役を演じるのは必ずと言っていいほど健常者である。
障害を一つの特徴として捉えれば、障害者の役は健常者よりも同じ障害という特徴を持つ障害者の方が演じやすいように思えるが、障害という病を「特徴」という軽いレベルで語るのは倫理上許されない、というのが主な理由なのだろう。
障害者を演じるのはかなりの演技力を要する、ように見える。だから障害者を演じるとその俳優は一気に演技派の仲間入りをする。そんな状況を、障害者の人たちはこれまでどんな目で見ていたのだろうか。本当は自身の硬直する筋肉の動きを真似されて、その真似がリアルであるということで俳優が賞賛を浴びて、賞賛される俳優に自分たちの心情を代弁しているような顔をされて、不快な思いをした人もいたのではないか。この映画を観ていると、そんなことが頭をよぎった。
映画の中で、住田の先輩であり、より重度な障害者である福永(この方も本人)が住田に「壁だらけだ。壊せ」とアドバイスする。この言葉が、この映画のメッセージそのもののように思える。
住田と健常者たちとの間にある壁は、差別というほど露骨なものではない。ただ、表面的な優しさや、無神経さ、無理に同じであろうとすることから生じる歪みが、小さな、でも無数の壁となっているように見えた。住田が無数の壁を、無差別に、向こう側に立っている人もろとも暴力で破壊していったように、この映画は気休めのように設置してある倫理観という壁を破壊し、私たちの心の中の偽善に突き刺さる。
お前の中途半端な偽善で障害者が表現をする自由を奪うな、と叫ばれているような気がした。
殺人鬼と化す障害者を描きたい思いが先行したためか、前半から後半にかけての展開にどうしても強引さを感じてしまうが、倫理観という巨大な相手に宣戦布告をした柴田剛監督と住田氏の覚悟に圧倒されて、ま、いいか、と思えてしまう。