なるべく予備知識なしで映画を見に行くのが好きな私としては、
これも、この間たまたま見るはめになった、
別の(超)エンタメ映画で予告編を知り、
それ1本だけで見に行くのを決めたのですが、
その心は、
「この、激しくののしり合う男女を見てみたい」
というものでした。
これは、おそらくあまり普通の感覚ではないでしょう。
普通は、ののしり合う人たちを見たら気分がめげますし、
私ももし、現実に知っている人たちに目の前でやられたりしたら、
おそらくいたたまれなくなることでしょう。
でも、物語の中の男女なら、少し離れたところから見ていられるし、
この二人の熱意とも取れる激しいぶつかり合いの中で
(少なくとも、予告編ではそう見えた)
どこまで言うのが許されるものなのか、とか、
普通はどこまで言ってしまうものなのか、とかいうことにも興味があって、
ともかくそればかりを期待して見に行ったのでした。
しかし、ののしり合い自体はしょっぱなからヒートアップで、
先を期待させられたものの、
生活のために夢を捨てた男女が、
互いをなじり合うだけなじり合った後で、
その後、どうその夢と折り合っていくのか、とか、
壊れてしまった絆をどう紡ぎ直していくのか、という部分にも当然期待していたのですが、
元々そういう話じゃ全然なかったらしく、どんどん崩壊していくだけだったのが残念でした。
しかも、これはカップルの崩壊というよりは…厳しく言えば自壊です、女のほうの。
元々、この男は「二流」の人生を生きていればそれでよかったのです
(この「二流」は、劇中で彼が上司から言及される「二流」とは逆さまの意味での「二流」)。
はっきりした夢なんてなかったんだから、
多少退屈だとは思っていても、会社員として出世できればそれで十分だった。
けれど、女のほうは元々女優を目指していたのが仇となったのか、
その夢が平凡な結婚生活の中でついえてしまっても、
一流の自分(と、一流の自分と対になった、「一流のはず」の夫)
という幻想から抜け出せなくって、
一見夫思いで太っ腹のような新生活への提案をしてみながらも、
それがかなわないとなると、一転して夫を攻撃する。
新しい生活で生き直してもらいたかったのは夫のほうじゃなくて、
実は自分だったからだね。
劇中に登場する、二人の知人の精神を病んだ男も同じこと。
二人がこの郊外の平凡な生活から抜け出す計画を放棄したことを知ると、
あんたにそこまで言われる覚えがどこにあるのか、と
誰でも言い返したくなるほどの激しさで彼らを責めるのだけど、
それだって、自分自身が今の生活から抜け出したくても抜け出せないのを知っているからこそ、
その思いを託した連中に裏切られた、という気持ちに駆られてのことに過ぎない。
誰も彼もが、自分で自分を変えることができないので、
他人のせいにしてののしっているのです。
女の感情は収まるところがなく、
これじゃあ、彼女のほうが自殺する以外にこの話は片づきそうにないな、
などという冷ややかな思いで見ていると…
と、その先はいわゆるネタバレになってしまうので控えておきますが、
この女性の心理構造は、日本バブル期に大量発生したと言われる、
裏づけなき「我こそは」根性によく似ているものの、
いかんせん時代設定とお国設定が50年代アメリカなので、
抑圧は強く(自らを縛るモラルも高く)、
逃げ道は少なく(ほかの選択肢がろくになく)、
当人によほどの運と根性がなければ、
内側に向かって壊れていくしかない仕組みになっているらしい。
はみ出そうと思えばはみ出したまま生きることもできるし、
むしろもはや壊れてしまっている、と言えなくもないほど、
自分一辺倒の人間の多い現代人から見たら、
これは、自らの身に引き比べてしまうと、
あまり共感することのできる部分の少ない映画でしょう。
ただ、映画はそのような時代に押しひしがれた人たちを描くのが主眼なので
(リチャード・イェーツという作家による同名の原作がある映画なので)、
誰のせいでもない悲劇、
あるいはこの二人のせいだけではなく、
すべての人たちが加担して起こしてしまった悲劇、
というように物語の幕を下ろします。
まあ、副題から連想されるような恋愛映画では決してないので、
あくまでも映画化された文学作品として見に行くことをお勧めします。