昨日のLunatic Scope vol.10にお越しくださった皆さま、
どうもありがとうございました!
にゃんこは今までに一番多くいっしょに踊ったことのある、
ASTROの演奏でのdanceだったのですが、
きのうはちょっと意識的に、あまり「我を出さない」ようにやってみました。
しかし、それは本来のにゃんこらしくはない。
自分にとっては、いささか実験的な試みだったのですが、
ちょっと、踊り足りない気持ちが残ってしまいました…。
ASTROに後で聞いてみると、
「そう言えば、あまり情念を感じなかった」と言うし
(彼は常に演奏しながら、私のvibrationを感じている)、
音楽の友(いや、ノイズの友?)のGovernment Alphaには、
「やっぱり、植物ですね!」と、ばかにしたような言い方をされるし、
にゃんこ自身は、ちょっとだけ「人形っぽく」やったつもりだったんだけどなあ。
本来、「ぽく」やる、なんてのは頭にないねこなんですけどね。
頭にあったのは「受容」という言葉です。
割りとよく心がけているつもりなのに、
かなりよく、それとは正反対のことをしてしまっているので。
でも、ほんとうに自分を殺すことが、相手を受容するということなのか。
自分を犠牲にしないと、相手を受け止めることはできないのか。
それならそれで、身を差し出すその行為に喜びがなければ、
ほんとうに受容した、ということにはならないのではないか。
自分の心の中にきしみや苦しみがあったら、相手も喜べないのではないか。
などと、いつも考えていることをまた考えてしまいました。
やはり共演行為には、共に演奏する(踊る)喜びがなければだめですね!
そんなこと、あたりまえですか?
うん、でもノイズ界にどっぷり浸かって育った人(とか、ねこ)ってのは、
たいていそこらへんがちょっとおかしくなってるものなんですよ。
ということで、次の31日のdanceはやっぱり「自分」でいこうと思います。
写真は、そのような踊りの中でも、割りと「自分」の出(ちゃっ)てる一瞬。
撮影は、Govt.A
追記(7月19日)
この「自分」というのは、唯一無二の「個性」とかとは違います。
にゃんこの想定する「自分」とは、底辺でみんなとつながっている「自分」のことです。
だから、「自分でいく」ということは、
にゃんこにとっては、「個性を前面に押し出した表現」とは別のものなのです。
ただ、「受容する」といったような、一見受け身でなければできなさそうな行為にも、
もっと自らの積極性が必要なのではないかと思いました。
単に自分を殺してしまっては、相手を受容したことにはならない。
にゃんこの喜びがみんなの喜びになるよう、
みんなの喜びがにゃんこの喜びになるよう、
にゃんこAまだまだ修行中。