2012-05-13

ヴィダル・サスーン追悼(パンフあとがきより) このエントリーを含むはてなブックマーク 

映画『ヴィダル・サスーン』を配給するにあたって

後で知った事だが、2010年に完成したこの作品は、いくつかの配給会社で買付けをパス
した作品だったようだ。またアップリンクで公開を決めてから相談した美容関係者の意
見も、美容師には面白いだろうけど一般の人にはどうなだろうかとも言われた。理由はヴ
ィダル・サスーンの日本での知名度なのだろう。美容の世界では知らない人がいないくら
い有名でも、一般の人となると知っている人は少ないというのは残念ながら事実だ。
でも、この映画を観た人は分かったことだろう、彼がいかに美容の世界で革新的な事を成
し遂げたかを。年表を見ていただければ分かるが、彼が最初にロンドンのボンド・スト
リートにサロンをオープンしたのは1954年。日本は敗戦から9年たったばかりで、テレ
ビはモノクロの時代だった。そんな時代にそれまでのオカマを被せてセットするのではな
く、小さなハサミ一つでサスーン・カットを行ったのだ。今や当たり前になっている美容
院での“カット&ブロー”、サスーンがもしいなければ誰かがやっていたかもしれないが、
今の美容はサスーンなしではあり得ないという事がこの映画でよく分かる。

ここまでは、美容業界向けの内容かもしれない。今ではあまりにも当たり前の事でも過去には変革した男がいたのだ。これだけでも十分公開して知ってもらう価値があると思った。
そして、僕がこの映画に、ヴィダル・サスーンに惹かれたのは、美容の世界を変えたクリエイターの部分も大きいが、一人の実業家の人生としてユニークで、常に既成のやり方を変えてやろうという信念とビジネスマインドを持っているところだった。ヘアスタイルをアートの領域迄高めたかったとサスーンはいう、”アートとビジネス”をどのように両立させるかに挑戦を続けたところに最も興味を持った。
このパンフレットのインタビュー取材でも答えてくれた当時サスーンのサロンで仕事をした川嶋さんと茂木さんも”働く事”を学んだと語っている。アップルが新入社員に送るメッセージにはこう書いてあるらしい「ただの仕事とあなたの人生の仕事があります。それはあなたの指紋が残る仕事。決して妥協しない仕事。週末を犠牲にしてもかまわない仕事。アップルでは、そんな仕事ができます。無難に過ごしたい人はここには来ません」と。労働基準法を考慮すると日本の企業はこんなメッセージを社員には言えないだろう。サスーンのサロンでも新しいヘアスタイルを開発する時にはサスーンの号令一つでスタッフが週末集まり夜を徹して、新しいヘアスタイルを開発していた。いってみればカットしても一晩経てば伸びてしまうたかが髪だが、そこに情熱を傾けていた。 既成の価値観を打ち破り、変革し、全く新しいものをつくる、新しいことを起こす、そのためには圧倒的な”熱量”が必要だ、それがサスーンには溢れている。このことは美容業会の人でなくとも多くの人に伝わる事だと思い、僕はこの映画を配給する事を決断した。

骨格に合わせて髪をハサミで彫刻を彫るようにカットする方法をサスーンは9年間で完成
させ、その9年が最もエキサイティングだったと彼は語る。確かに映画でもそのスウィン
ギング60's時代が一番映像的に魅力があるのだが、どんな仕事でも、一度完成したからと
いってそこに留まる訳にはいかない。サスーンの技術を一つのサロンとそこのスタッフのなかで標準化することは可能だろうが、2店舗、3店舗と増やしていきたいなら、当然本人の身体は一つなので、信頼できるスタッフに店を任せることになる。そこで必要な新しいスタッフの教育をどうするか。アパレルではデザイナーがデザインした同じ服を製産し、いくつもの店舗で販売すればいいが、美容はお客と一対一の商売なのでサロンのビジネスは機械化もできなければ大量生産もできない。サスーンが言うように、重要なのは会社とは“人”でしかないのである。

そこでサスーンは「ヴィダル・サスーン・アカデミー」を69年に開校する。学校で教え
るためには、技術を誰もが習得できるメソッドにしなければならない。そのメソッドを
作り、現在にいたるまで多くの美容師を育てた功績は大きいが、店舗を増やしていくサス
ーン自身のビジネスには必然のことだった。
そしてサスーンはアメリカに進出する。サロンだけではビジネスに限界があるので、一般消費社に向けて販売するヘアケア商品を開発する。現在、世界で販売されているシャンプーやヘアアイロンなどは、単に名を冠しただけのライセンス商品ではなく、サスーン自身が開発したものだ。『ヴィダル・サスーン自伝』を読むと、リンス入りのシャンプーも開発し、サロンにはマッサージができる部屋を設けたり、男性専用のサロンもオープンしたりと常に新しい事に挑戦していたことが書かれている。

さらに事業を拡大したいサスーンは、サロン部門は手元においておき、シャンプーなどの
ヘアケア部門をのど飴で有名なヴィックス社に1985年に売却する。世界中の女性を自分が開発した商品で美しくしたいという夢があった。ヴィックス社はサスーンの意を汲んだ世界展開をする計画をしていたが、その2年後ヴィックス社はP&G社に売却され、サスーンは全くビジネスには関わることはなくなった。ただ、サスーンの夢だった世界中で販売されることは実現した。

成功した実業家が最後に考えるのは後継者をどうするかだろう。そこでサスーンは、優秀
な幹部スタッフたちにモチベーションを与えるために、サロンを買収できる権利(LBO:レバジッド・バイ・アウト)を与えた。しかし、創業者でないものが会社の実権を持つとうまく行かなないのも世の常である。幹部社員たちは仲違いし、結局、2003年にヨーロッパのサロンチェーンの大手リージス社にサロンとアカデミーを売却してしまう。自伝によるとサスーンの息子イランはその幹部にサスーンが会社を買い取る提案をするが、リージス社との契約が終わった後だった。
したがって現在、世界にあるサロンもアカデミーも、またシャンプーやヘアアイロンなど
の商品も、サスーンが創り出したものではあるが、彼は経営や販売には直接かかわりがない状態だった。
サスーンは早くに会社を売却したことを後悔をしてはいるが、自分が育てたスタッフが現
在世界中で活躍している事を誇らしいと言っている。

日本での映画の公開が2012年5月26日と決まり、3月からサスーンにインタビューをし
たいと申し込んでいたら、5月に入りマネージャーからできるという連絡が入った。約束
の時間は2時間。ハリウッドのペニンシュラホテルのスイートルームを押さえ アップリンクのスタッフが弾丸トラベルを敢行し、 現地で複数のメディアのインタビューを行った。2時間を超えてサスーンは話を続けたかったようだが、マネージャーの判断で10分間だけ延長してホテルを後にした。

撮影されたインタビューの動画を見ると、フレンドリーに丁寧に質問に答えてくれていた。一言一言自分の言葉を伝えたいという意思が伝わってくる。インタビューでは日本で起きた震災についても語ってくれた。「私たちは、チェリノブイリの事件があった時に“もうこれ以上はだめだ”と言うべきだった。カリフォルニアにも2つ原子力発電所がある。明日、何が起きるか、私たちはわからないんだよ」。
取材テープを見ていると、時間がたつにつれ、しゃべりたい事はあるのだが、体力がおぼ
つかず、しんどそうなのがはっきりと分かる。
その一月後サスーンが亡くなったことニュースで知る事になるとは…。

日本での公開2週間前のサスーンの死を「凄いタイミングだね」と言う人もいて、彼の死
を利用して宣伝をするのはどうなのかとも一瞬迷いはしたが、僕は彼が最後のインタビ
ューテープの中で、生きる最後の力を振り絞って、日本で映画が公開される事に対して協
力してくれた事を知っている。この映画が公開される事で、観た人がなにかのインスパイ
アを得る事になればと語ってくれたサスーンのために、一人でも多くの人にこの映画を観
てもらい、彼が常に挑戦をし続けた人生を送った事を知って欲しいと思う。

インタビューの最後に、これからしたい事は何ですかという質問に「生きること」と笑い
ながら答え、白血病である事を告白し、でもこれは載せないでほしいなと言っていた。サ
スーンが亡くなった今、どうしようか迷った。その取材の場で撮影されたチャーミングなサスーンの写真をみると病気がそこまで深刻だとはまったく感じさせないものだが、それほど自分の身体が悪いと本人はわかっていてインタビューに答えてくれたのかと思うと胸が詰まる。そのことを読んだ人にも伝わればという思いから、サスーンの言葉をそのまま残して掲載したのだった。

彼の望みをかなえ、日本での映画公開の反響を伝えこのパンフレットを送り喜んで欲しかった。そうできなかったことは本当に残念でならない。
心からご冥福をお祈りします。

浅井隆
アップリンク社長

キーワード:

ヴィダル・サスーン


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