きちんとリサーチをした上での話ではないのだが、『ミルク』を観てこれを「感動作」と呼ぶ人の割合は、たぶん異性愛の人のほうが高い気がする。もちろん、『ミルク』は不出来な作品などではない。非常にリアルに撮られている。だからこそゲイの当事者、特にリブ活動に何らかの形でコミットしている人々にとって、『ミルク』という作品は安易な感動を許してはくれない。必ず何らかの形で、重いものが自分に跳ね返ってくる、そんな映画だ。おそらく、ドキュメンタリー映画『ハーヴェイ・ミルク』のほうが、ゲイの当事者には冷静に観られる作品であろう。というのも、それがすべて本物であるからこそ、当事者はそれを「自分に近い他者」の物語として客体化できる。客体化を通して、ミルクの人生を分析的に、自分自身にフィードバックすることができる。しかし『ミルク』はあくまでも劇映画として作られている。そしてショーン・ペンの演技がゲイの当事者から見ても非常にリアリティのあるものだったからこそ、客体化という作業を、ゲイの観客には許してくれない。ゲイの当事者にとって、『ミルク』という映画は、もはや「他者の物語」ではなくなっている。少なくとも、当事者の1人である私にとってはそうだった。跳ね返ってくるものの中身は、人によってさまざまだとは思うが、いずれにせよ、ゲイの当事者には今一度自分自身のあり方と真正面から向き合う内面の作業が必ず要求される、そういう映画だ。