先日、シネアミューズのロビーで次の映画配給について劇場関係者と打ち合わせをしていたときに「シネアミも『靖国』『コドモのコドモ』と問題作が多いね」と言ったら「浅井さんはメイプルソープ裁判で闘ったので“検閲”問題とは闘いますよね」と言われて、「表現の自由を奪うシステムとは闘うけど、表現されたものを販売する場所の制限や年齢制限には賛成なんだけど」と答えました。
その時点でまだ『コドモのコドモ』は観ていなかったので早速観てきました。
この映画を巡る検閲問題はよく知らなかったのでネットで調べると9月19日発売号のアエラで以下の事が報道されていました。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/aera-20080919-01/1.htm
秋田県庁に届いた2通の匿名メール、それには、「小学生の子どもが県内のスーパーのトイレで出産する場面があるらしい」という映画に描かれていないことが書かれていたそうです。それに秋田県は反応して映画配給会社に対しビデオを送るよう文書で要請したといいいます。
<「県青少年の健全育成と環境浄化に関する条例」が定める「有害興行」に該当するおそれがあり、「県の審議会にかけるかどうかを、まず我々が常識で審査する必要がある」(福原秀就県民文化政策課長)というのが理由だった>
そして、アエラはさらに、<「秋田県がしたことは、実質的な事前検閲。こうした無造作な動きが、表現活動をどんどん制限していく」そう批判するのは、服部孝章立教大教授(メディア法)だ。右崎正博獨協大法科大学院教授(憲法)も、「行政は公開された作品に対して事後的に対応するのが原則。条例に定めがない今回の行為は、表現の自由において致命的」と話す。>とコメント取材を掲載しています。
その結果、秋田県はどうしたのかは記されていませんが、映画業界自主規制団体である映倫はこの映画をなんの年齢制限もない一般映画に指定しています。
ここでまず問題を整理すると「秋田県青少年の健全育成と環境浄化に関する条例」がどういう条例なのかということ。この条例が映画公開以前に県が審査する仕組みを条例化しているかどうかということ、もししていないのなら配給会社は県から申し出が会っても断ればいいだけの話です。
実際に条例を読むと事前に配給会社が映画を見せなければならないとは記されておらず、もし青少年に有害と指定された場合でも、映倫で言う「R-18」の指定になるという条例です。
http://www.pref.akita.jp/kaikaku/reiki_int/reiki_honbun/u6000274001.html
アエラは「検閲」という権力が行使する言葉を使い記事を作っていますが、記者が思い描くストーリーと現実は違うように思います。要するに県の検閲はなかったのではないでしょうか。秋田県が配給会社が断る事のできない権力を行使したのなら「検閲」でしょうけど。
この映画の11歳の子どもが赤ちゃんを産むという設定に多くの人が反応し、ネットの書き込みには映画の上映を中止せよという意見が見られます。
僕はその上映中止という意見には断固反対です。
自分の価値観と違うものを社会から抹殺しようと発言したり行動したりする事は、テロと全く同じではないでしょうか。映画は上映されなければその存在はないことになります。
嫌なら観に行かなければいいし、観ないようにしようという運動でも起こせばいいのです。
そして、映倫が一般映画に指定した件ですが、この映画が小学生に観せることを前提として製作者サイドが作ったのだとしたら 映倫はPG12(12歳未満は保護者同伴)とするのが妥当ではないでしょうか。子供には映画で起こった事に問題があるかどうかを判断する能力はないと思います。(後で述べますが多くの大人も判断できないのでなおさらです)例えば、身長140センチのハルナちゃんの出産による母体の安全が保たれるのかなど。(監督は産婦人科医を取材して145センチ以下の母親の出産は危険だと聞いたので、140センチの子をキャステイングした、それによりファンタジーとしたという理屈をなにかの雑誌で述べていました)ただし、現実は、ミニシアターにほぼ小学生は来ないので一般映画でも子供には影響はないと思いますが、審査機関としてはPG12にすべきだったのではと思います。
配給サイドはそのレイティングによって興行的に影響は受けないはずですし、配給会社的に不毛な論争を避けられたのではと思います。
萩生田監督は「この映画はファンタジーである」といっていますが、チラシに書かれたコメントを読むと多くの人はこの映画を「ファンタジー」とみておらず「子供が本来持っている生命力に感動した」というようなコメントが並んでいます。想像力の産物がファンタジーであるはずですが、この映画を観た大人の想像力はそれほど豊かではないようで劇中の事を結構リアルに捉えてコメントしていました。
観る側の大人に想像力があれば、多くの貧困国に見られる避妊せずにセックスをした結果若い母親と赤ちゃんの生活のことなど想像できるはずです。というのは、つい先日フィリピンのドキュメンタリーを観て、貧しいにも関わらず母親が5人目の子供を生むのですが、母親は妊娠を知ってから民間療法的な堕胎薬を飲んだため、生まれた赤ちゃんの健康に悪影響が出ているという辛い話でした。
なぜ、避妊をしないのかとまず思いました。
ある人はコメントで「命とは授かるものであり、授かったら祝福されるべきであり、子どもは宝である」と書いています。知識がある大人にとっては、子どもはセックスによって作るものであることを知っています。その結果、精子が卵子に着床しそれが細胞分裂をしてヒトになるかどうかの運命を「授かる」と言っても良いとは思いますが、まず、男女の意志がなければ子どもは授かる事はできません。麻生先生が性教育をしなくてはならないのはこのような大人たちではないでしょうか。
子供の行動や考えが純粋でプリミティブで生命力に溢れているかというとそれは違うと思います。子供は可能性を秘めてはいるが社会的にはまだ幼く、無知なことが多くあるという事をコメントを出している大人は忘れているのでしょうか。
と、僕自身もファンタジー映画の子供の行動をうっかり真面目に論じようとしてしまいます。
この映画上映の問題は監督が「ファンタジー」と宣言しているのに、映画を観た大人がファンタジーと捉えずまじめに「子どもの生きる力は素晴らしい」と言っているところにあります。それは『ハリー・ポッター』を観て子供の想像力の豊かさを語ったり、『ダークナイト』を観て、まじめにバットマンの憂鬱を論じるようなものです。
そして、映画自体の問題は残念ながら想像力を駆使して作られたファンタジーになりきっていないところではないでしょうか。
映画業界的にはこの作品が地方のミニシアターがネットワークを作り配給するシネマ・シンジケートの第1回配給作品だという事でも注目されています。
「全国の映画館主が選ぶこだわりの1本」という作品なので、まず自分の眼で確かめる事をお勧めします。