ゲンスブールのスキャンダラスで退廃的な人生に反して、とても真摯な作品であった。「真摯」とは時に退屈なものだが、その退屈こそがこの映画の「真髄」であり、その真髄とはとりもなおさず監督ピエール=アンリ=サルファティのゲンスブールへの「愛」である。
すなわちこの愛に満ち溢れた99分間は、愛を歌い続けたゲンスブールへのサルファティからの愛の返歌なのである。キャメラは、歳老いて更に醜くなったゲンスブールを大写しにし、羅列し、ただひたすら平板に提示し続けるのだが、これはサルファティがまちがっても凡庸なドキュメンタリストだからではない。 凡庸なドキュメンタリストは、対象物への愛よりも自己への愛の方が強い。皆自分がかわいいから、誰かに“いい作品だった”と褒めてもらいたいのだ。
この作品にそういった所は一切見られない。 サルファティのある種、強靭で狂人的な愛がこの作品を「真のドキュメンタリー」たらしめている。 何の虚飾もせず、何の私情も挟まず、彼はただひたすら冷徹に「ありのまま」を描き続ける。まるでゲンスブールの中にいた、アンビバレントなもう1人のゲンスブールが乗り移ったかのような徹底ぶりである。
その意味で、この作品は本当に優れた「真のドキュメンタリー」作品だ。ゲンスブールを遠くから思い続けた男が、決して対象物の言動に自己を投影させることも陶酔することもなく、むしろそのような片思いの自己を極力消し去る方向で製作しているからだ。「片思いにこそ本当の愛がある」とは誰が言った言葉だったろうか。見返りなど一切求めていないその作風は、本当に美しい。
凡庸なドキュメンタリストというのは得てして、作品に私念を散りばめたがる。いいものにしようとか、評価されよう、あるいは他の誰かからのさしがねで、いきおいドキュメンタリーをドラマチックにしようとするのだ。モノローグを入れてみたり、キャプションで説明したりして、観客を自分の思い描いている世界へ誘導しようとする。このような作品は、残念ながら対象物のありのままの姿から遠ざかってしまっていることが殆どである。
少し前に見たある音楽ドキュメンタリーは、そのバンドがそのツアーをもって解散するとういうこともあって、とても見応えのあるものになるはずだった。しかし残念なことにそこに記録されていたのは、最期を迎える彼らのありのままの姿ではなく、監督の私感とその方向付のための歪曲と誇張、自己陶酔だけであった。観客が見たかったのは、作者の創造や独白ではなく、あるがままの彼らの最期の瞬間であったのに。
ひるがえってこのドキュメンタリーには、そういった監督のスケベ心は一切ない。繰り返しになるが、サルファティはちょっと偏執的ともいえるストイックさで粛々とゲンスブールの断片を並べるだけだ。本編中、ロシア文学からの抜粋の映像化にトライしたシークエンスも数回登場するのだが、それらはとても中途半端である。好意的に解釈させてもらうと、おそらくあれは先に述べたような、(愛の足りない)誰かからのさしがねだったのではないだろうか。
“愛さないが愛している。そう、それがサルファティなのだ。”
かくしてこの映画は、いみじくもジタンの煙のようにフラフラと舞い上がりやがて消えてゆく、儚い自己と脆い自分の多重露光の間をさまよい続けたゲンスブールへの、揺るぎない愛でできている。
この「真摯」な映画を見て「退屈」を感じてしまう方は、おそらくまだ「愛」とはいかなるものかわかってないのであろう。かく言う私もまた、その1人である。