元々歌っていた人(サイモン&)ガーファンクル)よりも情感たっぷりに「アメリカ」を歌うデビット・ボウイ、実はいじられキャラだったザ・フーのピート・タウンゼント、お茶目すぎるビリー・ジョエル、全く聴いたこともなかった曲にギター・ソロを見事にのせる天才エリック・クラプトン….、この映画に登場するミュージシャンたちの魅力やステージに上る直前までの素顔は、実に楽しく、見ていて面白い。そして、それが9.11が起こったわずかひと月後の様子というのも、ちょっと驚かされる。「9.11で亡くなった人の追悼とニューヨークを元気にしよう」を目的にしたコンサートにもかかわらず、ミュージシャンたちにあまり暗い表情も心を痛めている様子もない。ただ歌いたいから歌いに来た、というところが、日本人の感性と違うのも興味深い映画だった。
それはもちろん、ミュージシャンたちの個性の強さからのものなのだが、それ以上に、コンサート開催を提唱したポール・マッカートニーの魅力に誘われるように集結した、と思わせるところが、この映画の最大の見どころなのだ。
この映画には、ちょっとありえないようなシーンが登場する。それは、ニューヨークの街頭を歩くポール・マッカートニーの姿だ。本人が突然、カメラを引き連れて大都会のど真ん中に現れるのだから、ニューヨークの人々の驚愕とうれしさは当然だ。だから、ポールに群がるようにくるのだが、ポール本人は、やってくるファンひとりひとりに、自分がもういいと思うまでサインするなどして応対してくれるのだ。それは、大スターの風格などない、スターという地位を利用しようという雰囲気もない、普通の人間の姿に他ならない。素直に自分の人間味を表すことができるポールだからこそ多くのミュージシャンたちが集まる、ということを、この街頭のシーンひとつで観客は納得してしまう。
何か大きな事が起こったときにチャリティーが行われるが、やっている内容や出てきた人物に偽善を感じられるようでは、すでにチャリティーにはならない。だから、偽善者が主のイベントほどつまらないものはない。その点、ポール・マッカートニーの人間性に偽善はまったく感じられない。だから、参加する人々にも偽善的な姿はない。そんなチャリティーは盛り上がって当然、というある意味、当たり前のことが当たり前に描かれているところが、この映画の魅力であり見どころなのだと思う。
2011年、日本でおきた大震災に関する、ありったけのミュージシャンたちを集めたイベントは、まだ開かれていない。様々な障害があるのかもしれないが、ポールのような人間が日本にいないのが、一番の理由なのかもしれないと、この映画から感じられてしまうのは、ちょっと情けない気がする。