私は、見沢知廉とほぼ同世代だ。だから、東大紛争も、三島由紀夫の切腹事件も、よど号事件も、三里塚闘争も、見沢と同じような視点から見ていた。そして感じたのは、あそこまで何かを信じられるものがあることが、とても羨ましかった。思想や革命が信じられるほど、私はハナから純粋ではなく、人も社会も信じてなかったからだ。
この作品では、信じていたものがあった男が駆け抜けた人生が綴られている。それは、革命家や思想家、作家としての見沢知廉ではなく、熱い血潮に身をまかせたひとりの純粋な人間の激しさとはかなさのように思えた。文学の世界に身を置いていても、体制や社会に本気で立ち向かう。しかし、自分の生き方、人を殺したことへの罪の意識が募るせいで、母だけには弱い自分を見せてしまう。それを悲しい男の生き様、ととらえる人もいるだろう。しかし、私は同世代の人間として、人間・見沢を理解する。いや、理解したい!。そうでないと、私の人生や生き方が否定されてしまうように感じるからだ。見沢の世代の人間は、学生運動からバブル時代まで、日本の魑魅魍魎とした社会を見てきているだけに、この作品を見ていると、かなり複雑な思いに胸を突き動かされる。
一方で、思想家で革命家だった見沢を、他の思想家から語る姿も興味深い。それはときに、自分の子どもをねぎらうようにさえ見える。だからなのだろう。「天皇ごっこ」などという思想家なら眉をひそめるタイトルの本を出しても、あまり批判されることはなかったのは。革命家・見沢も、実は人から好かれる男だったようだ。
私は、この作品を見終わった後、彼が弁のたつ人間だったらどんな人生を送っていただろうと思った。革命家や思想家で名をはせた者は、人を信じさせる話術の上手さを持ち合わせていた。はっきり言って、文学から革命はまず生まれない。人の前に立って、目の前の人を信じさせないと、革命は進まないものだ。もちろん、弁で革命や思想を追求、進めることなど、見沢の考え方には最初からないものだったろう。それでも、信じられるものがあった、純粋な人間の言葉に心動かされた者が実際にいただけに、彼に弁舌という術がなかったのは、悔しくてならない。