2011-10-16

イケムラレイコ うつりゆくもの を観て このエントリーを含むはてなブックマーク 

東京国立近代美術館でイケムラレイコの本格的な個展を観た。個人的にはとても愉しみにしてた展覧会だし、実際作品も素晴らしかったのだが、しかし思いもよらぬ複雑な気持ちになったのも事実だ。
 イケムラの作風はその時代時代において様々な変化を繰り返しており、同時代の様式の影響をわかりやすく反映している。批判的な人ならそこに問題を見いだすのかもしれない。そうした傾向は美術大学などで学習し、素直に同時代の影響を吸収してきた美術家には避け難いものである。イケムラのような海外で作家活動を重ねるタイプにもそれがあること、また、やはり日本人であることを意識せざるを得ない環境から明らかな作風の変化が生まれてきていることは興味深かった(例えば新作の「山水画」のシリーズ、俳句と呼ぶテキストなど)。
 ただ、イケムラを特別の作家にしている要因もまた、そうした同時代の影響やさまざまな美術史からの影響がその作品から読み取れるところにある。ブランクーシを彷彿とさせる幾つかの立体作品もそうで、そこにブランクーシを読み取る時、むしろブランクーシを受容したイケムラの心の反映を読み取ることが可能だろう。80年代の新表現主義の時代をピークにまるでピカビアのように多様な様式の変遷を経て、現在の静謐な作風を発見していったイケムラさんがあり、そこに我々は感動もする。そして、そうした作家の個性のようなものが、高い技術の裏打ちによるものであることは、立体作品などの確かな造形力からも明らかになる。

 とはいえ、こうして部屋を周り、イケムラ作品を観ていく中で複雑な感慨を覚えたのも事実である。80年代はまさに日本ではセゾンカルチャーの時代であり、そうした文脈もまたその作品の彼方から透けて見えること、またこうした学習された美術史に基づく作家の個性といったもののが、とりわけゼロ年代以降批判的に退けられている現在を思うからである。東浩紀などによる理論を背景とした様式のアーカイヴ化とその再配置、さらに村上隆以後のジャポニズムを様式化しつつ、作家の特権性を排した(ような身振りを持つ)カオス*ラウンジなどはこうした80年代からの美術の流れを断絶するかもしれない。また、そこにパルコ木下氏のように「美大」から「pixiv」への絵師の移行を見ることも可能だ。

 話がとりとめなくなっていくので、この辺で止めるが、しかしそうは言っても、こうした現在の様式(カオス*ラウンジなど)も時代の一傾向であることは再認識したい。それが決定的に作家のアノニマス化に向かわないことは歴史が証明している。イケムさんのような作家が存在し、そのあり方が一見否定されつつあるような今日において、そこにもまた現在の美術情況を重ねて眺めること、そしてまたどうしても残滓のように残る作家的個性に、否定でなくむしろ一縷の望みを繋ぐことが大切に思えた。少なくともあの青と赤の対比と、脆弱な支持体であわいのように光る画面には絶対的なものは存在するのだ。

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Taxxaka

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“美術家・BitRabbitのTaxxakaこと高橋辰夫です よろしくお願いします”


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