2011-10-25

「おまえはどうなんだ?展」という展覧会に行った。 このエントリーを含むはてなブックマーク 

「おまえはどうなんだ?展」という展覧会に行った。
 この展覧会は、画家の工藤春香さんが発起人として企画したものだ。
 工藤さんとは、僕が運営してたギャラリーカフェで知り合ったのだが、初対面から非常にパワフルで、絵描きさんの中では能弁で、それだけに人への関心も高いようなタイプだと思った。実際行動的で、こうした企画力はなるほどと思わせるところがある。またいわゆるアカデミックな環境で美術に接してきた人でもあり、そこに僕は自分との違いも感じるわけだけど(つまり、彼女は藝大の油画で、僕は多摩美のGDなのですが、ここに横たわるであろうコンプレックスや、いくばくかの自尊心などは、おそらく現在の美術大学とネット絵師問題などにも通底するのではないかとも思う)その話しはいずれ。

 さて「おまえはどうなんだ?展」だ。そういった彼女のキャラクターもあってか、アートでなく美術と呼ぶべき品の良さと、裏返しの新宿歌舞伎町のような庶民的と言うよりかはより下衆な感性が織り混ざった不思議な場を形成することは、予めある程度は予想できた。とはいえ「美術」における「崇高」は常に「下品」をいかにオープンな場に実存させ得るかということでもあるわけだから、こうしたアプローチは当然正攻法と言ってよいのかもしれない。

 「おまえはどうなんだ?」と、我々は問いかけられる。それが「おまえはどう思うんだ?」でないということは、意外と重要だろう。もしかしたら「やあ、俺は元気だぜ。で、お前はどうなんだ?」という愛想の良い問いかけかもしれないし、或いは「だからいったい、お前はどうなんだ!?」という詰問かもしれない。
 かくいう自分はどうなのかといえば、ここ10年くらいゆるゆると時間に置き去りにされたような気分で過ごしているとも言えるし、正直なにものかから逃げてないとも言い切れない。おそらく、もっと美術についても考えないといけないだろう。

 この展覧会は、松の湯という少し寂しいような温かいような、昭和の風情が残る江戸川橋のお風呂やの二階で開かれていた。昭和の風情といっても、CGで創られたような怪しい懐かしさではなく、吹きさらしの風が、夕闇をさらに寒くする中、疲れたサラリーマンが、酔っぱらいながら憂さを晴らす、そういう風情である。
 入ってまもなくこちらを見据える強い視線の写真が待っているのだが、残念ながら、この場所の多弁さは、そうした作品の意図や迫力等簡単に打ちのめすだろう。実際、もっともこの場所に拮抗し得るテンションを保っているのがフクヤクラスによる「演劇」であることは象徴的だ。「演劇」はともかく「演劇的」であることは美術の世界ではしばしば貶める言葉として用いられてきた。まあしかし実際、この場所は演劇的すぎるのだ。そのことによって逆説的にこの「演劇」はむしろ「美術」であることを確保されていた。これはたしかに「おまえはどうなんだ?」という問いそのものとも言えよう。

 どこまでが展示で、どこに境界があるのか、ひたすら曖昧な場であることは、しばしば作品の絶対性を退ける。例えば先の視線の持ち主を捉えた西村知巳の写真が、その説明ともコンセプトとも、詩とも捉えずらい覚束ないテキストと写真の組み合わせで、場そのものが闖入者であることを望んでいる場所で、それなりの居心地の良さを見せている不思議さはなにか。またなかで珍しく、作品の絶対的強度が、彫刻であることを言明する窪田美樹の作品ですら、大木裕之との心地よい融和を楽しむかである事はこの展覧会ならではの驚きではある。

 とはいえこんな文章で、一つ一つの作品に触れるほど野暮なことはないし、それぞれの作品についての善し悪しなどは「おまえはどうなんだ?」ということなんだから、あまり言わない方がいいのかもしれない。ただ、もっとも控えめに展示されていた工藤の絵の暗さは特筆してもいい気はする。絵の内容が暗いのではなく、絵の置かれている場に光があまり届いてないのである。
 かつて学生の頃、峯村敏明という評論家のせいで、インスタレーションにひどい偏見を持たされてしまった経験は、いまもなお良くも悪くも自分の中で美術への接し方の指標の一つとなっているのだが、いわゆる場の絶対性への疑いから、絵画にしろ彫刻にしろ、作品に照明をきちんと当てる必要はないとまで彼は言っていたのだ。その意味するところはさまざまだろうが、サイトスペシフィックであることや、演劇的な身振りがいかに作品の本質をごまかす手立てとして働くかを力説するあたりは「もの派」を称揚した氏のらしさでもあり、しかし同時に自らを否定するかのごとく「ポストもの派」そして「所沢ビエンナーレ 引込線」に向かってしまう弱さ(或いは変貌?)の予感であったのかもしれない。もちろんこれは否定でも肯定でもない。
 少なくとも、絵にとってけして十分ではない光源(それはもちろんのぎすみことのコラボレーションでもある)の中、工藤の絵はそれによって別種の審美性を獲得しており、しかもそれは絵画ならではのものであった。

 自分もまた、否定でも肯定でもないところに行きたいと思う。批評はよく「○か×をつける場所」と言われてきた。実際そうなのかもしれない。また、その切迫感こそが作品を生み出す力にもなり得た時代があった。だが、今はどうなのだろう。
 とりあえず○か×をつける事へのノーを唱えてみる。そこから何が生まれるか、何も起きないかわからないが。それが僕に向けられた「おまえはどうなんだ?」への一つの答えかもしれないし、この銭湯の残滓に覆われた暗い場所で開かれた騒々しい展覧会によってもたらされた一つの感慨かもしれない。この夏、我々は点いてる筈の灯りを消す事で、普段目にしない光を発見し、聴こえない音を聴く事は出来たではないか。
 
 後僅かで終わってしまうこの展覧会は、観て、二三日しないと、輪郭が見えてこないようなものだとは思う。

おまえはどうなんだ?展 松の湯二階 10.29まで
http://sites.google.com/site/omaehadounanda/

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Taxxaka

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