2010-03-03

ノマドロジーという移動性と偏在性 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 映画は、チャンドマニに住む名人・ダワージャブのホーミーからいきなり始まる。びりびり震える低音と、鼓膜に刺さるようなキーンという高音とが相応し、インパクトが大きい。
 なぜそのような場所なのか。本物のホーミーは都市ウランバートルからは消えてしまい、それだけでなく、モンゴル内の地域によっても濃度が異なる。いやそれは結果論に過ぎず、登場人物の言う「ホーミーは遊牧民のもの」と看做すべきなのかもしれない。日本の街では、仮に喉歌そのものが完璧であっても、ひたすらに広い草原や雪や山や風の中で響くホーミーは存在しえない。
 私がはじめて実際に聴いた喉歌は、ロシア・ハカス共和国の音楽家たちによる来日公演だった。あるいは、ロシア・トゥヴァ共和国出身の歌手サインホ・ナムチラックのパフォーマンスだった。ハカスの喉歌はハイ、トゥヴァの喉歌はホーメイといった。ロシアとはいえモンゴル周辺、喉歌文化圏なのだと考えていた。
 そのように差異はあるが共通の文化圏を想像するとき、実は、モンゴルという広がりの中の差異を忘れ去っていることになる。勿論、その想像も、国境という概念からまったく自由でないことは確かだ。ともかく、ノマドロジーという移動性と偏在性とを見せてくれて、とても新鮮だった。
 映画は半分ドキュメンタリー、半分ドラマといった印象だ。とは言え、ドラマ自体がドキュメンタリーと化している。ふたりのホーミー唄者がたまたま同じマイクロバスで2日間かけてチャンドマニに向かい、ふたつ以上のドラマがシンクロするものの、お互いがホーミー唄者であることは認識しない。そしてふたりは別々の地へと向かう。このあたりの作り方は感嘆するくらい見事だ。

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