舞踏家で『朱霊たち』の映画監督の岩名雅紀さんと新作『夏の家族』の件で会った。そこで話題は映画の性表現についてになった。国家はなぜポルノグラフィを禁止するのか? メイプルソープ写真集裁判の弁護士を努めてくれた山下弁護士にこの質問をしたことがあるが、その時の答えは「かつてポルノは国民の勤労意欲を削ぐという理屈で禁止されていたが、現代ではポルノを見たくない人の権利を守るために禁止するというのが法律の論理」だった。岩名さんの新作の性描写のシーンの一部を見ながら改めて思った事は、セックスとは極私的な事であり、そこには国家の権力や政治が介入できない事象であるという事。
国家はその国で起こるあらゆることを管理したい。正確に言うならば国家は管理する事によってしか国家という概念を市民に植え付ける事ができない。
先日、篠山紀信さんの写真を路上で撮ったという理由で警視庁は写真集の猥褻性は問わずに、その路上での撮影行為が公然わいせつ罪にあたるということで篠山さんの事務所を家宅捜索した。この時、国家は写真集の写真を管理するのではなく、その撮影行為、公共の場で許可なく勝手に全裸のモデルの写真を撮る事が許せなかった。国家は、自らが管理している公共の場で自由に表現活動を行われたことに腹が立ったのである。これも正確に言うならば、公共の場は国家が管理しているのだという事を知らしめる事で国家という概念を保とうとしているのだろう。
先日、鈴木祥子さんのライブを撮影したこともあり、ツアーの最後の大阪まで行って来た。そのツアーの打ち上げで今回のツアーバンドであるジャック達の一色進さんが「俺はラブソングしか作らない。ミュージシャンは政治的な歌なんか唄ってもしょうがないんだよ、ラブソングだけを唄えばいいんだ」とかなり酔っぱらった状態で発言していた。
その通りだと思う。国家と同じ土俵にのって政治を歌にしてもそれは本当の権力を持っているサイドからすればそんな歌など恐れる事はないだろう。国家が恐れるのは個人の自由への欲望の歌、そして本当の愛の歌だろう。
人はなにものにも管理されず自由に生きたい。
人は自分の欲望だけに忠実に人を愛したい、世界を愛したい。
ただ、そうしたいと思う、それが生きる事だ。
人は国家権力に逆らって生きたいと思っているのではない。
その自由に生きたい、自由に表現をしたい、自由に愛し合いたいという欲望の結果起きる事象を国家権力が禁じるならそれは闘うことになる。
国家権力サイドが恐れるのはそんな個人の自由に生きたいという欲望だ。
そして、その欲望を管理する事は不可能な事を国家は知っている。
自由に生きたいと思うならば、自分の欲望に忠実に人を愛し、世界を愛する事だ。
全ての愛するという行為は「表現」だ。
昨日迄渋谷の街はクリスマスモード一色。ラジオからは定番の恋人通し恋愛を唄ったクリスマスソングが流れている。
巷には商品化され消費される「恋愛」は溢れている。巷に流れるの大半の音楽は「恋愛ソング」であって「ラブソング」ではないのでついこのシーズンに思ってしまう...
国家が嫉妬し禁止するような「ラブソング」を。
国家が嫉妬し禁止するような「ラブストーリ」を描いた映画を。