2016-01-20

デヴィッド・ボウイ このエントリーを含むはてなブックマーク 

ボウイの逝去が報じられて1週間が経った1/18にこの文章を書いている(逝去は1/10、報じられたのは1/11)。逝去の報を知った時は茫然として何も手がつかなかった。やっと文章を少し書く気になった....ボウイとの最初の出会いは次の2つのどちらかだ。「クリスチーネF」のスチルを「スクリーン」か「ロードショー」で見た時、もしくは「レッツ・ダンス」発売時に近所のレコード屋に「時代がボウイに追いついた」のキャッチコピーで新作発売の告知ポスターが貼ってあり見たこと。今調べたら「クリスチーネF」の日本公開が1982年6月、「レッツ・ダンス」の発売が1983年4月なので「クリスチーネF」が先のようだ。その前に酒の「純」のCMで目にしていたかもしれないが、あまり興味を持っていなかった。1983年5月公開の「戦場のメリークリスマス」と「レッツ・ダンス」でボウイが街中や雑誌に大量露出していた頃は覚えている。シングル「レッツ・ダンス」のPVを「ベストヒットUSA」で見たのが最初の正式なボウイ体験だ。

 映画では「地球に落ちて来た男」を名画座で観たのが最初だった。多分、SF映画くくりで「ブレードランアー」と2本立てだったと思う。80年代始めの当時からカルト映画で中学生にはあまり面白いではなかった。その頃はキネマティックな映画が好きでデ・パルマやカーペンターが大好きだったから。「クリスチーネ・F」、「ジャスト・ア・ジゴロ」、「ラビリンス/魔王の迷宮」、 「ビギナーズ」、「戦場のメリークリスマス」などをボウイ目当てでなく当時公開していた映画として見ていた。映画の見始めで何でも見る時期だったからだ(基本的にそれは今も変わらない)。その中で特に印象的なのは「眠れぬ夜のために」だ。スーツを着た殺し屋で、主人公のジェフ・ゴールドブラムと ミシェル・ファイファーを追って来る。スコセッシの「アフター・アワーズ」にも似たオフビートの巻き込まれ型スリラーで好きな作品だ。理由は、こちらの人生を変えた「ブルース・ブラザーズ」のジョン・ランディス監督作品で思い入れがあるのと、ランディスの人柄から多くの監督がエキストラ出演しているのが楽しめるからだ。ドン・シーゲル、デヴィッド・クローネンバーグ、ジョナサン・デミ、ポール・マザースキー、ロジェ・ヴァディム、ローレンス・カスダンなどで実に楽しい。

 そしてボウイの映画で忘れられないのがトニー・スコットの監督デビュー作で1983年作品の「ハンガー」 だ。今は再評価されているが公開当時は酷評された。今では見慣れたCMやPV的な映像が旧来の映画評隣家に嫌われたのだが、当時の酷評ぶりは本作のコメンタリーで監督が語っている。映像派の監督がもともと好きでイギリスのCM出身の映画監督御三家のリドリー・スコット、アラン・パーカー、エイドリアン・ラインは好みだった。だから、リドリー・スコットの弟も兄と同じくCMやPVの監督で「ハンガー」という映画で監督デビューすると雑誌で読んだ時は楽しみにしていた。主演はカトリーヌ・ドヌーヴとボウイで脇に当時はまだ比較的若手だったスーザン・サランドンが出演しているのも楽しみだった。作品セレクションと椅子の座り心地が良かったシネマスクエアとうきゅうでの公開もポイントが高かった。シネマスクエアとうきゅうに観に行ったら、当時のニューウェーブをメインに聴いていた時期だったので冒頭のバウハウスのライブシーンからグッと画面に引き込まれた。先に公開されたアラン・パーカーの「ピンク・フロイド/ザ・ウォール」との近似性も感じたものだ。「ザ・ウォール」は1982年の作品だったが、日本では公開配給会社がつかず、高橋幸宏さんなどの熱意で1983年10月に公開された(「ハンガー」の日本公開は1984年4月)。映像の質感も似ていたし、編集や音楽の使い方も当時の他の映画に比べて先鋭的だった。「ハンガー」はボウイのスケジュールに合わせて撮影したこと、当時大スターのドヌーヴとボウイの主演にトニー・スコットはかなりビビっていたこと、性的に過激な脚本を読んだボウイは出演を迷っていたが出演が決まると撮影中にアイデアを出してくれたことをコメンタリーでトニー・スコットは語っている。今見ても古びていないし、トニー・スコットのコメンタリーも興味深い内容でお勧めだ。

 映画のボウイでは「タイムズスクエア」でもボウイの曲が使われているかと思っていたが調べたらルー・リードの「Walk on the Wild Side」だった。ルー・リードやイギー・ポップはボウイの流れで聴いた訳ではないが(リードはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを先に聴いてからメンバーのソロとして聴いた)、ボウイがキャリアの助けをしたことは後から知った。同じくキャリアを助けたモット・ザ・フープルはボウイ流れで聴いたが、イアン・ハンターのソロは愛聴盤が複数ある。

 個人的なことだと、不思議な縁でボウイの息子のダンカン・ジョーンズと友人だ(参照/こちらがダンカンをインタビューした記事 
http://intro.ne.jp/contents/2011/10/26_1643.html 
ダンカンにはこちらの監督作「3.11日常」に応援コメントもいただいたり 
http://www.311everydayliving.com/comment.html 
ツイートやメールもやりとりしている。1月末発売の映画芸術の連載欄の近況欄には「デヴィッド・ボウイが10年振りの新作「ザ・ネクスト・デイ」から3年の新作「ブラックスター」を69才の誕生日の1/8にリリースした。若きジャズミュージシャン達と作り上げた充実作。こちらの友人でボウイの息子のダンカン・ジョーンズ(映画監督)は「Huge, huge, HUGE luck for tomorrow dad. :) 」と1/7に祝福ツイートしていた」と当初は書いたが編集部から1/16に連絡があり、逝去を前提にした文章に書き換えた。そこにも書いたが、ダンカンにお悔みの言葉をメールしたら大変な中を返信してくれた。冒頭に書いたように当初はショックで何も手がつかなかったが、今は素晴らしい音楽を精力的に多く残してくれたことにボウイにはただただ感謝している。

 奇妙なことだが、友人のお父さんがボウイなのでいつか会う機会があるとどこかで思っていた。頭のどこかでボウイは死なないとも思っていた。しかし、その機会は無くなった。こんなに早く死ぬなんて.....。 ボウイは本当に好きなアーティストだったが、この早い逝去には忌野清志郎さんを想起した。共にまだまだ作品を作りたかっただろうの無念の死だったであろうことが悲しいが、共に闘病期間も長く死の準備はどこかでしていただろう。ボウイは69才の誕生日の今年1/8に発売した素晴らしい新作「★(Blackstar)」はまさに遺書であった。しかも闘病を一切分からないように隠しての発売だった。アーティストとして全うした人生だった。心臓の痛みをライブ中のステージで訴えてから10年の期間を経て何の告知もなくいきなりiTunesでシングルを含む発売したアルバム「The Next Day」も同じようなものだった。清志郎さんのことを書いたのは理由がある。こちらが出入りするようになった帽子屋の地下の打ち合わせルームに行った時、清志郎さんのプライベートのような大きな写真が貼ってあったので聞いたところ「うちの帽子を気に入って清志郎さんにオリジナルの帽子を作っていたんですよ」とのことだった。清志郎さんが亡くなってそれほど時間が経っていない頃で、もう少しで会う機会があったのかもという想いを抱かせたのがボウイと同じだったからだ。

 ボウイが亡くなり、ミュージシャンを筆頭に多くの方々が追悼文を発表したが、本当に誠実で寛大ないい人だったのが伝わるものばかりだった。矢野顕子さんがツイートしていた、娘の美雨さんを肩車してよくかまってくれていたエピソードや、その美雨さんがそのことに関してツイートしていたことなどだ。死後に見直したライブ・エイドのボウイの演奏ではキーボードがトーマス・ドルビー、ベースがスティーヴ・セヴェリン(バンシーズ)、ドラムがニール・コンティ(プリファズ・スプラウト)で「Heroes」を歌う前にMCで「ぼくの息子や世界中の子どもに捧げる」と歌っていた。ルックスや音楽性からは神格化やセレブ的に見られがちなのだろうが、普通の人だったんだなと思う。本当に誠実で寛大ないい人は息子のダンカンにも引き継がれていて、そのことは上記のダンカンのインタビューの実現経緯を見れば分かると思う。そのインタビューにも出てくる浅野忠信さんの弾き語りに1/13に行った時にボウイの音楽や映画が好きだった(弾き語りを始める前にもボウイ逝去に関して語っていた)浅野さんにボウイの画像を持っていただき撮影した画像をつけておきます。

 この原稿を書いている最中の1/18朝にスプリングスティーンがボウイの「Rebel Rebel」カバーをライブ披露したニュースをFBで知り見た。スプリングスティーンはボウイは憧れであり、「ヤング・アメリカンズ」録音中のスタジオに招待されたこともMCで話していた。やはりそういう良い人だったんだなと再認識するエピソードだった。

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わたなべりんたろう

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わたなべりんたろう

“「ショーン・オブ・ザ・デッド」の監督・主演コンビの傑作「Hot Fuzz」の公開署名運動をしています。 <Twitter> http://twitter.com/RintaroWatanabe ”