同様に新生児の取違え事件を題材とした『そして父になる』(第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞)で脚本も担当した是枝裕和監督は、「血のつながりか、愛した時間か」という命題をたて、私たちに「親子とは、家族とは」というきわめて原初的ながらも「正解」の存在しない問いを投げかけている。この映画、『もうひとりの息子』 は、そうして改めて父となり、母となり、きょうだいとなるという二つの家族の試練を描きながら、同時にさらに大きな人類的課題をも鋭く提示している。
「愛しい息子が、兄弟が、ある日突然、もっとも憎い『敵』の子どもであるとわかったら」という途方もなく残酷で、解決不能な難問が双方の家族にいきなり突きつけられる。イスラエル側の父親はわけもなく車を洗い始める。パレスティナ側の父は修理中の車の下でそっと涙を流し、なかなか出てこようとはしない。弟・ヤシンがユダヤ系の血を引いているとわかったとたん、兄・ビラルは仲よしの弟を拒絶し、極端なまでに憎悪する。ビラルの怒りと絶望は、おそらく現在多くの人が示すであろう情動の典型ではなかろうか。
スクリーンに遠慮なく映し出されるのは、壁と検問に象徴される厳しいパレスティナの現状であり、対立と絶望とが交錯する不毛であからさまな言葉の応酬だ。映画ではそうした映像も台詞も禁欲的なまでに削ぎ落とされ、研ぎすまされている。監督が三年をかけて練り上げたという脚本は、さまざまな事実に裏打ちされており、フィクションとは呼べぬほど精巧に組み立てられている。乳児の取り違え事件は、実際に湾岸戦争時のイスラエルで起きていたことでもある。
映画は後半、あらゆる「形容詞」や道徳、そして言うまでもなく「政治」をそっと排除しながら人間の等身大の真実を映し出す。そこで描き出されるのは、「『自分』の人生を生きるもうひとりの『自分』」を受け入れた現代のイシュマエルとイサクの姿であり、懊悩の末に二人をともに我が息子として温かく見守り、受け入れようとする双方の母親のやさしいまなざしだ。そうした中で弟を峻拒していた兄・ビラルや二人の父親にも次第に変化が現われてくる。
これほど上質の清々しい感動を味わったのは、ほんとうに久しぶりのことだ。「つくり話」には興味はないほうなのだが、どうしても観たい映画だった。エンディング・ロールを眺めながら、最後に海辺で起きた傷害事件、兄と弟の和解、そして「取り違え」というそもそものきっかけに至るまでさまざまなエピソードが巧みなメタファーであることにも気が付いた。
ここ数年、イスラエルでも「古代『ユダヤ人』の子孫は、イスラエル人ではなくパレスティナ人だ」とする書籍がベストセラーとなり、「シオニズムによるイスラエル建国は、『神が約束した土地に帰る』というトーラー(旧約聖書)の記述を利用した政治運動に過ぎず、ユダヤ教の教えとは異なる」とする説まで紹介されている。さらにDNAの分析で、ユダヤ系とパレスティナなどのアラブ人が共通の祖先をもつということも知られるようになってきた。
この映画は日本とほぼ同時にイスラエルでも公開の予定だという。わざわざ映画館に足を運び、「直視したくない現実の物語」を観る人たちの多くは、おそらくパレスティナとの和解と共存に積極的な考えをもつ人たちであろう。映画の静かで豊かなメッセージがイスラエルと日本の多くの人にしっかり届くことを心から願っている。
キーワード:
≪前の日記