四年前、日本では野球のWBCで盛り上がっていた頃に、私は母や叔母たちと一緒に、麗江や昆明、虎跳峡などを巡る中国・雲南省の観光旅行を楽しんでいた。どこも国内や海外の観光客で大賑わい。街には、その観光客たちを迎える近代的な施設が次々と建設されていて、地方都市までも発展する中国の躍進を肌身に感じられた。
そんな旅の中、気になったのは観光地から観光地へと移動する際の車窓から見える、今にも崩れ落ちそうな家の数がとても多いことだった。最初、それは人がいなくなった廃墟だと思っていたのだが、実はほとんどの廃墟同然の家に、まだ人が住んでいることを旅行が終わった後に聞いて、愕然としたのを今でも忘れることはできない。麗江などの雲南省を代表する大都市からそれほど離れていない場所に、まだ昔のままの生活をせざるおえない貧困が残っていることは、観光ではわからない雲南省の実態だったようだ。
この映画は、まさにその雲南省の実態を、冷徹にまで距離感がありながらも、温もりのある視線でとらえた、見事なドキュメンタリーの秀作だ。映画の舞台となったのは、私が旅した地域よりもさらに離れた山の中、海抜3200メートルに位置している村。畑でとれるのはイモばかり。放牧しながら育てるヤギや馬の売買から収入を得るくらいしかない、貧困にあえいでいる。仕方なく男たちのほとんどは出稼ぎに行ってしまい、残された家族のひとつ、10歳を頭にした三姉妹を見つめつづける150分は、ときに悲しく、ときに微笑ましく、そして大人たちや村を見捨てている国への怒りを、見る者に抱かせる。
お金がない貧しさだけでなく、夢や理想までも失ってしまう人間的な貧しさを感じるシーンがいくつもあり、見ている側もどうしていいのかわからないくらいに戸惑ってしまうこともある映画の中で、唯一救われるのは、幼い妹たちの可愛らしい笑顔と歌声だ。まだまだ無邪気に、どうなるのかわからない未来に向かう姿には、戦争で何もかも失った後の希望のように、スクリーンから優しい光を放っていた。
しかし、一番上の姉からは、映画の最中、歌声を聞くことはなかった。これひとつだけでも、この映画に登場した雲南省の村の貧しさ、希望のない人々の暮らしの厳しさが表れている。一度、観光で旅した者にとっては、言いようのない衝撃を受けた作品だった。
ところで、もうひとつ気になったのは、映画の監督ワン・ビンのドキュメンタリー演出の手法だ。
普通、ドキュメンタリーはカメラを向ける側と向けられる側、つまり監督と主人公となる対象者との会話や交流で成り立っているものが多い。そうすることで、監督と対象者との信頼関係が生まれ、それが映画全体に一定の秩序と安心感が生まれる。それに温かみが加われば、観客にも共感される。ところが、この映画は監督と主人公、あるいはカメラがとらえる対象者との交流を感じるシーンがほとんどない。特に、三姉妹が暮らす家の中は、カメラを据えっぱなしで監督がいないのかと思うくらいに、あまりに自然すぎる姉妹たちの様子をとらえている。先に、冷徹にまでの距離感との言葉を使ったのは、それだけ監督の存在感が希薄だからだ。
しかしその距離感が、登場した村と三姉妹の姿を、観客により近く、より鮮明に描き出していた。監督の存在感があまりないドキュメンタリーなのに、監督からのメッセージがより深く感じられるこの作品によって、これからのドキュメンタリー映画そのものが大きく変化するかもしれない、との予感も感じさせる。その意味でも名作になりうる一本だと思う。