一にも二にも、シャイフたる彼のための映画である。
『砂漠でサーモンフィッシング』と謳ってはいるがこの映画、実のところ砂漠も鮭もフィッシングもどうでもいい。なんでもいいのである。大切なのは大富豪、族長として登場する彼、アムール・ワケド演じるシャイフである。『シャイフが砂漠でフィッシング』である。
この映画を見ている間、私は終始頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。『ご都合主義』だとか、そんな言葉も一緒にだ。プロジェクトも彼らの人間関係も、まるで完璧に舗装された線路のようなのである。破綻が見えて来ないのだ。
そもそも監督や脚本家がこの映画を以て私たちに伝えようとしていることが一体何なのか、しばらく私は把握できずにいた。登場するのは皆一様に感情移入の難しい人物ばかりだ。かといってプロジェクト自体も私たちの生活や人生のなにかに当てはめるには、やたらと遠くにあるように見えてしまう。どこかで見たような展開の応酬の中それ自体は奇抜なのだが、ゆえに茫漠としたものに感じるのである。
そこに突如現れたのが、彼、シャイフだった。
シャイフはそれまでの何とも違った。
シャイフのみが様々なしがらみやこの映画の曖昧なリアリティラインを軽々飛び越えて、圧倒的な魅力を持って突如私たちに迫って来たのである。ゴロンゴロンと転げ回りながら女子中高生のような恋愛を(最後の最後まで)繰り広げるエミリー・ブラントとは、まるで違う映画の住人がそこにいたのだ。
ユアン・マクレガーの演技は確かに素晴らしい。常時コミカルでウィットに富んでおり、それでいて真面目に喋っても言葉に信憑性がしっかり乗っかっている。しかしそこにシャイフがフレームインしたその瞬間、あのユアン・マクレガーが、スターウォーズでオビワンまで演じたあの名優ユアン・マクレガーがまるで小さく見えてしまうのだ。いや、彼が悪いのではない。シャイフの発するオーラ、そして説得力が途方も無さすぎるのだ。
そうだ、シャイフ、私もそう思うぞ。信じる心だ。なにより、信じる心である。
シャイフの登場により、映画には途端に命が宿る。そうか!シャイフが劇的に映えるよう、ここまでは『あえて』の作りだったのか!
礼節をわきまえたシャイフ。
鮭を釣り上げるシャイフ。
命を狙われるシャイフ。
義理に厚いシャイフ。
喜ぶシャイフ。
シャイフは魅力的だった。
気の遠くなるような時間とお金をかけたプロジェクトを、悪意の一撃で完膚無きまでにぶち壊されても、シャイフは激昂したりなんてしない。微笑んでいる。仕方ないと言って許すのだ。シャイフは復讐などしない。また一からやればいいと仰るのである。ああシャイフ、なんて人だ。 あなたはなんて人なんだシャイフ。
私はもうシャイフに夢中だった。
こんなことならこの映画はシャイフを主人公に、プロジェクトの発端から成功までをまるでチェ・ゲバラの革命映画のように、壮大なドキュメンタリーとして撮るべきだった。『砂漠でサーモンフィッシング』なんて俗っぽいタイトルもやめだ。『シャイフ~遥かなる挑戦~』とか、そんなのにすればよかった。メインキャスト二人の恋愛はサイドストーリーとしてあれば十分。
人々が見たいのは他でもないシャイフだ。私たちにはシャイフの教えが必要なのである。