2013-02-13

『ゼロ・ダーク・サーティ』クロスレビュー:『永遠の平和のために』 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 前作『ハート・ロッカー』を見れば明らかなように、キャスリン・ビグロー監督は啓蒙思想家である。『人間学』ではなく『映画』により人々を導かんとする、現代のカントである。

 9.11テロ後のCIA。若く優秀な女性分析官である主人公マヤが、憎きテロ組織の指導者オサマ・ビンラディンを追跡すべく最前線のパキスタンに配属されるところから物語は始まる。
 冒頭から、アメリカの上院議員が抗議したほどの過激な拷問シーンだが、主人公マヤは非人道的な拷問や捕えられた捕虜そのものを直視することができず目を背けてしまう。要するにここではまだ彼女は我々側に立つキャラクターなのである。あなたや私はビンラディンを自らの手で殺してしまいたいだろうか?目の前にいたら義憤に駆られて飛びかかってしまうだろうか?
 最終的にマヤはビンラディンを追いつめるに至る。『ゼロ・ダーク・サーティ』は、その過程が非常に巧妙且つ端的に、しかし狂気をもって描かれている映画だ。

 我々側と述べたが、対にある存在を仮にアルカイダのテロリストとするならば、そこにあってこちらにないもの、それは他ならぬ『動機』である。
 なんらかの『被害者』になった瞬間、我々にはもれなく『加害者』足りうる権利や名目が与えられる。復讐という、終わりの無い憎しみの繰り返しに参加することを認められるのである。主人公マヤは追跡の過程で自らも命を狙われることになる。10年間という長い長い年月をかけて、その環境はゆっくりと彼女を壊してゆく。銃撃され、自爆テロに遭い、それにより大切な友人や仲間を失ってゆく。異常な環境下で10年間を生き抜き、その間彼女が備え、身につけ、自らに課していくものは他ならぬ『動機』だ。動機を纏った彼女は我々側では無く、テロリスト側により近い存在へと変貌してゆく。上司に牙を剥き、ネイビーシールズを指揮し、ビンラディンを見つけ出して殺すためのマシーンへと。

 復讐を正当化する映画ではない。
 それに、一体どれほどの価値や意味があるのか?と、痛烈に問いかけてくる映画である。
 最近だとライアン・ジョンソン監督『LOOPER』からも私は同様のメッセージを受け取ったのだが、結果、そこには何も存在しないのである。看板に大きく『復讐』と書かれた隣に、終点の無いメビウスの輪が存在しているのみだ。この映画も『LOOPER』も、どんな動機でそこに組み込まれようと『いえ、自分は大丈夫なんで』と自力で退出する勇気を賞賛するものなのである。

 1795年、カントは論文『永遠の平和のために』で、こう説いている。

『いかなる国家も、例え戦争状態になったとしても、再び信頼関係を取り戻し平和を回復することを不可能にするような敵対行為を行ってはならない。(中略)つまり、戦争といえども、人類の絶滅を避けるためには、一定の禁止法則がなければならない』

 キャスリン・ビグローやライアン・ジョンソンは理想家などではない。人格主義的なモラルと理性をもって、200年も前から説かれている勇気について教えているのである。
今作『ゼロ・ダーク・サーティ』最後のカットで、現代社会に於けるそれの必要性をだれもが痛感することだろう。

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ryu

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