2012-11-06

『チキンとプラム~あるバイオリン弾き、最後の夢~』クロスレビュー:芸術か生活か このエントリーを含むはてなブックマーク 

Satrapi, Marjane, dir. Poulet aux prunes . Dir. Vincent Paronnaud. 2011. France, Germany, Belgium. Le Pacte.

大切なヴァイオリンを壊されたナセル・アリは、死ぬことにしました。これは最期の8日間で、彼が生きた人生を振り返る物語です。

1958年秋、テヘラン。働かず、家事や子供の世話も手伝わず日がな一日ヴァイオリンを演奏し続ける夫に業を煮やした妻は、彼の大事な楽器を壊してしまいました。「奏でられないなら死ぬ」、ナセルは死を待つことを決意します。

死ぬ数日前、退屈に苛まれたナセルは、幼い息子に「創造の神髄を教えてやる」と言いますが、息子はオナラで答えます。そして将来、妻子と平凡な中産階級生活を送る息子の様子が、アメリカのホームドラマのような映像で描かれます。芸術を解さず求めもしない息子のその姿は、生理的欲望だけで生きてしまったら、人間がどうなるかを示しているようです。

4日目、妻フランギースがナセルのためにチキンのプラム煮を作ります。それを食べているときだけが、ナセルが妻に唯一優しいことばをかけるときでした。きついことを言いますが、妻は彼を愛していたのです。彼女とは母親に勧められての見合い結婚で、ナセリ41歳、フランギース30歳のとき、20年の外遊からナセリが戻った時に結婚しました。「愛情は後から生まれるわ」と母は言いましたが、結婚後も愛情は生まれませんでした。「芸術家と結婚したんだ。最初から分かってたことだろ」と、ナセリは仕事と家事の両方、つまり生活にまつわること全般を妻に押しつけます。

ヴァイオリンを壊されたあと、食欲、喜び、味わいを失い、妻が愛情をこめて作ったチキンのプラムにも手を付けない彼は、壊した彼女に「決して許さない」と宣言し、「お前を愛したことはない」という暴言を吐きます。

なぜ彼には音楽がこんなにも大切なのか、回想シーンで解き明かされていきます。幼い日から音楽命だったナセル。著名な音楽家アラ・モザファールに弟子入りしますが、「テクニックは完璧だが、君の音楽はクソ」、「音は出るが空っぽ」と言われてしまいます。

「人生は吐息。人生はため息。このため息をつかむのだよ」と師匠は彼に言います。

そんななか、綺麗な衣装をまとい、街を闊歩する美しい女性イラーヌにナセルは出会います。熱狂的な恋に落ちたナセルは、イラーヌに会うために、彼女の父親から買った時計を巻き戻して止めます。これは時間を操作しているという意味で、象徴的動作です。将来ナセルが記憶の中のイラーヌとの思い出から一歩も動かず、何度もこの記憶に立ち戻ることの比喩でしょうか。

21歳で音楽修行のために故郷を出てシーラーズに行ったナセリは、そこで失恋し心が壊れて「石の塊」になってしまいました。「苦しみを締め出してしまった。虚無しか残らない」。現実の生活を生きることを拒否し、イラーヌという人生におけるたった一つの光り輝く存在にしがみつくナセル。これは、心が壊れて現実生活で機能できなくなった芸術家の物語です。そんななか、息子は夜ベッドの上で、彼のために祈っています。しかし彼はそれを知りません。彼を愛し彼のために祈る人間は周囲にたくさんいるのに、彼はそれに無頓着なのです。

6日目、映画のナレーターでもある死の天使アズラエルがナセルの前に出現します。許しを求めるナセルに、アズラエルは「心がわりするにはおそすぎる」と言います。

8日目、イラーヌとの恋愛の回想シーンで、彼のイラーヌへの失恋、そしてそれが彼の人生に及ぼした影響が描かれます。

短い蜜月、映画デートで二人が観ているのは、サイレント映画の『オペラ座の怪人』で、“I shall prove to you the depth of my love.”(私の愛の深さを証明しよう)という字幕が現れています。ナセリはイラーヌとの別離後、「愛の深さを証明する」かのように、彼女だけのために演奏を続けるので、彼らの将来を予測しているようです。

彼がイラーヌの父親に結婚の許可を求めたとき、父親はこう言って拒否します。「熱なら私も知ってる。熱はすぐ冷める。現実は厳しい。どうやって娘を養う? 音楽家で金もない」。その後、ナセルは自分とイラーヌを引き裂いた「現実」というものを、一瞬たりとも愛せなくなったのではないでしょうか。

「一つだけ断言できる。決して忘れない」。妻に「決して許さない」と言ったときのように、イラーヌを決して忘れないと宣言するナセル。忘れなかったために、つまり記憶の中のイラーヌだけを大事にし、目の前の生活や家族をないがしろにしたために、ナセルはその後、あまり幸福な人生を歩みません。

イラーヌとの別離後、師匠に「君は偉大な音楽家だ。ついにため息をつかんだ」、「失くしたものはすべて君の音の中にある」と言われます。彼はイラーヌの代わりに音楽を愛し、すべてを注ぎ込んだのでしょう。

それから彼の20年に及ぶ旅が始まり、音楽家として成功します。彼の音楽は失ったもののためだけにあり、それからどんな女と寝ても、「イラーヌじゃない」としか思っていないようです。

このように、自分ではない誰かを思って音楽を奏でていることを知っていたのか、この上なく美しい夫の音楽に涙しつつも、妻は音楽に嫉妬し、ヴァイオリンを壊します。

そして、イラーヌが20年ぶりに会ったナセルに言った台詞。この台詞でナセルの20年が瓦解します。

死をナセリに決意させたのは、ヴァイオリンが壊れたことではなく、このときイラーヌに言われた一言ではないでしょうか。

終わり方がややあっけない映画で、死ぬ直前にこれといった啓示的瞬間や奇跡は訪れず、ナセリは冒頭の予告通り死んでいきます。死の天使が言った通り、「心がわりするにはおそすぎ」たのでしょうか。

非常に寂しい話でした。主人公は、彼の人生に唯一の温かみを与えたチキンのプラム煮を食べずに終わりました。ナセルは食欲を失うと同時に、現実の生活を拒否したのでしょうか。

残念だったのは、音楽映画なのに、あまり音楽がフィーチャーされていないことです。ナセルの音楽が継続して流れるのは、イラーヌを思って放浪していた20年の年月を表すシーンのみ。しかしこのとき鳴っている音楽は、素晴らしかったです。もう一つ難点を言えば、ナセルの音楽を聴いて泣いていた聴衆のドラマも少しはあればよかったのではないでしょうか。

しかし音楽にすべてを捧げている芸術家の実人生というのは、実生活で届かなかったものへ向けての跳躍なのかもしれない、と感じさせる映画でした。

その一方で、常に昔の恋人を心に抱いて音楽を奏でるナセルは、音楽そのものを希求していないようにも見えました。あくまでも「音楽」は「イラーヌ」の代わり。失った対象に届くための「手段」であって、「目的」ではない。-イラーヌを失い、音に深みや情緒は出たのかもしれませんが、それは奏者に生きる希望を与えるのではなく、喪失感を埋めるためだけに奏でられていたように見えます。

彼は現実の生活で届かなかった幸福の代替物のように音楽を愛するのですが、それはとてつもなく孤独かつ排他的な行為で、ヴァイオリンが壊れると同時に、そして相手にとっての自分の価値が分かると同時に、崩れてしまう脆弱なものだったのです。

映画のタイトルはフランス語でも「チキンとプラム」("Poulet aux prunes")です。彼が愛せなかった「生活」を象徴する単語の並びが映画の顔と言うべき題名とされた理由について、ひとしきり考えてしまいました。

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