MOTに行き、トーマス・デマンド展を観た。当初は、一緒に行ったKさんほどの関心はなかったが、先日NADiffでNさんと写真の話しをしたりしてからは積極的な関心に傾いていた。
デマンドの写真作品は全体に大きめのサイズで、予想はしていたものの、さほどの予備知識もなく、BTでの図版くらいのイメージやベッヒャー的な構造性かな?くらいの関心で行ったので、イメージの修正は必要だった。
明解な政治性がそのポップさの理由になっていることに感心した。大統領執務室のイメージの虚構性と現実感は、アメリカという国のイメージそのものでもあり、ある種の生々しさのみで補足し得ない巨大な装置としての国家像が浮かび上がっていた。しかしそれ以上に、その動画作品のマテリアルとしてのおもしろさ(フィルムもあった)と、例のコントロール室のイメージは、より複雑な同時代性を伴っていた。フィルムとデジタル、CGIの時代におけるアニメーションと写真、そして紙の彫刻…など、言葉にすると陳腐なものでしかない。揺れ動く船のできごとと、天井の破壊されたコントロール室の生々しさと、暗い柵の共存は、説明不要の饒舌で、我々に強く作用した。
デマンドその人が語る映像をしばらく眺めた。ウィットに富み、わかりやすく自作を語る所作は、作品のあり方と呼応して好もしかったが、当然、今後肥大せざるを得ない、マテリアル、もしくはバジェットとしての作品のサイズとその手法には、いい知れぬ不安も覚えた。自作を「写真」と呼んでいたかは定かでないが、使われた紙の作品を「彫刻」と呼んでいたのは印象的だった。
この日は映画ファン感謝デーでもあり、フィリップ・ガレルの映画を観ようと思っていたのだが、それは割引対象でないのではと思い、新宿で「アメイジング・スパイダーマン 3D」を観ることに変更した。
いわゆる新宿のシネコンは、いずれも3Dは割引除外とわかり、歌舞伎町に久しぶりに足を向ける。折りしも天候は崩れつつあったが、中心のコマ劇場を欠いたその場所は、ある意味爆心地のようで、寂しい空洞のように見えた。
話題作であるにも関わらず、ミラノ座では「アメイジング・スパイダーマン 3D」は閑散とした様子だったが、懐かしい劇場らしさに心は踊った。前回サム・ライミ版では、現代的なリズムの獲得と、映画の歴史への目配せから結果的に重苦しい作品となっていたが、とはいえ、いまさら荒唐無稽なコミック的な仕様にするわけにもいかないだろうこの作品を、どうリメイクするかは楽しみでもあり怖くもあった。「(500)日のサマー」も観ていないので、マーク・ウェブがどのような才覚の持ち主かもあまりわからず、おそらくは青春映画の匂いはするだろうとは考えていたが、予想を超えて瑞々しく淡い恋の物語だったことには驚いた。
こうした大きなテーマに、映画作家の個人的欲望を沿わせることは不可欠でありながら、しばしば不協和音を生む。しかもそれもまた求められているだけに厄介だ。その意味で、ウェブのある意味地味なキャスティングや、もはや悩めるヒーロー像からもさらに遠のいた等身大のティーンエイジャーとして描かれたスパイディーのこどもっぽさに、さまざまな設定や過去の記憶との軋轢を感じつつも、物語の完全に瓦解した現在にふさわしい解釈の佳作だったと思わざるを得なかったし、感動した。もちろん、登場人物への暖かすぎるキャラクター設定(監督の優しさによるものかとは思うが)には少々照れなくもないのだが、この大作をこの小さな映画にまとめた力は、評価されるべきだと思う。この映画の印象と、デマンドのそれには、その政治と日常の距離において、共通する印象を持った。
映画を観て外に出ると、雨は少し強くなろうとしていた。遠くから「再稼働反対」の声が聞こえた。銀行に寄ってデモに目をやる。すると、友人の作家Sが奥さんと一緒に、やや俯き加減で歩いている姿が見えた。自分はなぜこちらに居てあそこに並んでないのか、少し考えたが、疲れていたので考えを諦めた。がんばってと思った。一部の大きな絶叫やノイズは、必ずしも道行く人に良い印象を与えないだろうとも思った。
再稼働に反対というよりも、なぜ再稼働してしまうのか、それが出来てしまう仕組みがいまだによくわからず、当惑したままの自分が情けなくもあったが、雨の中、デモの声と食堂からするどこかの国の音が混在する新宿は耳と目に新しく、外国にいるような気がした。