2012-04-02

『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』クロスレビュー:53分の光 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 53分。決して長いとは言えない映像の中で、私達はどれだけのことを知るだろう。

 広島、長崎への原爆投下は、日本人の歴史観のなかで唯一絶対的な意味を持って共有されていることだ。それでも、これほど知られていないことがある。私は驚きと憤りを感じながら、53分を過ごした。

 ソ連への威嚇、壮大な実験としての原爆投下。8:15という投下時間は、綿密な調査のもと、より多くの人が屋外や遮蔽物のない場所へ出ている時間を割り出して設定されたのだ。
 そして日本の敗戦後、アメリカがいち早く「ABCC(原爆傷害調査委員会)」を設置したのも、被曝者の治療が目的ではなく、放射線による影響を観察するためだ。断片的に見たことのあるABCCのフィルムに納められた被爆者の表情は、みな一様に固く、こわばっている。カメラに収められることに対する緊張と思っていたけれど、違う。自分がモルモットのように観察されること、サンプルでしかないことを感じていたのだと思う。

「なぜ日本政府は、アメリカ政府と結託して、原爆による死亡者の数を隠そうとしたのでしょうか? 日本にとって、原爆は忘れ去りたい過去であり、敗戦の屈辱を思い出したくなかったからかもしれません。そしてなにより、被爆者の認定は、国の賠償責任にもつながる問題だったからでしょう。」(『核の傷』ナレーションより)

 被曝者の実態の隠蔽に関与してきた日本政府。福島原発事故以来、見慣れた姿がここにある。この国は、あれだけの犠牲を払いながら何をしてきたのだろう。広島、長崎、福島。この小さな国で3つの都市名が象徴的意味を持たされ、過酷な運命を背負わされる。アメリカにだけではない、これは日本政府によって背負わされたものだ。

 撮影当時、肥田氏は89歳。埼玉の病院で被曝者の治療にあたる姿も映像に収められている。肥田氏はもちろん、診察に来る被爆者も若くはない。原爆投下から67年という歳月を感じながら、証言者や当時を知る方の年齢を考えずにはいられない。どんどん事実を知る人が少なくなって、広島も長崎も、わかりやすい「平和」のイメージに覆われてしまうのだろうか。そして、いずれは福島も。

「今までやってきたこのタイプの運動を地道に長く、工夫をしながら続けて死んでいけばいいと思う。」

 肥田氏の言葉が響く。広島、長崎を省みることなく、国家と資本によって進められてきた原発政策の、一つの終焉を迎えた日本社会。巨大な相手に対して、諦めることなく働きかけてきた肥田氏の経験は、福島以降の社会でも変わらず光を持ち続ける。これが私達の生きる道だ、と指し示すように。

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