アルゼンチン映画と言えば、昨年観た『瞳の奥の秘密』のヒロインのまっすぐで力強いまなざしがとても印象的で、忘れがたいものがあった。
『瞳は静かに』という題名を見て、邦題を考えた人の思惑どおり、同じ『瞳』がつくことにまず興味を惹かれ、紹介文を読んで、『瞳の奥の秘密』の発端の事件と同じ1970年代のアルゼンチンを題材にした映画であることを知り、主人公の少年のまっすぐで力強いまなざしに吸い寄せられるようにして観たのだが・・・観終わった後、『瞳』の語るふたつの物語の共通点と相違点をあれこれ考え続けることになった。
主人公のアンドレスは端正な顔立ちと印象的なまなざしを持つものの、何か特別に得意なことや苦手なことがあるというわけでもない、8歳という年相応のごく普通の少年である。友だちと遊んだり、母に甘えたり、祖母にわがままを言ってみたり。兄は優しく、勉強もスポーツも弟よりできるようだが、そのことが弟に影を落とすこともないし、父は少しおっかないとはいえ、離婚したわりには息子との関係はそう悪くないように見える。何も変わったことが起こるはずのない平穏で平凡な生活である。
それが母の急死によって、父と祖母の住む家に兄と共に引き取られることになり、大きく変わることになる・・・わけでもない。父も祖母も兄も以前のままだし、父の家は母と住んでいた家の近所らしく、学校も友だちも変わらず、遊び場も変わらない。母を失った喪失感は深いが、昨日と変わらずに続いていく日々がいつかその痛みも消し去るのではないかと思えてくる。
しかし、変わらないと思えた日常が少しずつ軋み、形を変えていく。
軍事政権による支配が日常生活を直接脅かすことはなくても、背後に潜む不穏な空気がじわじわと滲み出してきて、淡々と家事をこなす祖母とアンドレスのやりとりの中にも違和感が漂うようになる。母が恋しくてアンドレスが荒れるときは、理由がわかるから安心して観ていられる。けれど、静かなときに何を考えているのか。何か悪いことが起きるのではないか、何かもっと悪いことが起きるのではないか、と緊張感が高まり、退屈な日常生活を描いているはずの画面からも目が離せなくなる。
終盤、彼のまなざしがあれほど変わるとは。
そしてあの結末はいったい。。。
『瞳の奥の秘密』は最後に謎が解け、驚くと同時に納得できた。途中には重くて辛いシーンがいくつもあったが、ラストシーンのおかげで全体の印象は暗くない。
この作品は最後に驚いて、そのまま終わる。いつまでも心にトゲが刺さったままで、謎は残るし、気持ちは晴れない。それでも、観てよかったと思えるのは、やはりアンドレスの印象的なまなざしのおかげである。瞳は静かに、しかし、雄弁に、アルゼンチンの辛い歴史を物語っている。原題の『アンドレスはシエスタなんてしたくない』よりも『瞳は静かに』の方が観終わったときの気持ちにしっくりする。
アルゼンチンではようやく軍事政権時代のことをおおっぴらに語れるようになったと聞く。これからますますこの時代を扱った作品が作られるだろう。アンドレスに自身の子ども時代を投影したという監督は今40代半ば。経験した者にしかわからない空気感を今の時代に伝える作品を今後も発表してもらいたいと強く思う。